サハリンの中に樺太を探しに
                       (時間は全て日本時間、距離は推定です)
 はじめに
 愛棒は樺太を脱出してからもう57年の歳月が流れた。母親から話しには聞いていたが、実際に親の育った泥川を見たいと思ったらしい。そこで、叔母さん3人と愛棒に付き添って行くことになった

 泥川には郷土愛の強い人たちがいて、泥川郷土会を作って活動している。今回は泥川会の5人、泥川近隣に住んでいた2人とわれわれ5名の合計12人がサハリン友好の船(企画:道日露協会、潟mマド)に申し込み、泥川へ行くことになった。
 2002年7月24日〜25日 札幌⇒393km,6h30min⇒稚内
 会社から帰って直ぐに準備をして8時には寝たのだが、11時に目覚時計が鳴ったときにはなにが起きたかと思った。気を取り直して、出発の準備をする。札幌のわが家を出発したのが24日11時30分だった。市内に住んでいる愛棒の叔母3人を一人一人拾って行く。一様に、叔母の夫たちは心配そうに見送っていた。

 一路、安全運転で、稚内を目指す。高速道路で和寒まで行き、そこからは一般国道を北上する。みなさん、興奮しているのかなかなか眠らず、話しが尽きない。そのためか予備知識が頭に入ってくる。愛棒の叔母たちはトイレが近そうなので、極力、道の駅に停まる。道の駅はトイレが綺麗で本当にありがたい。
 稚内には6時過ぎに着き、集合の8時には早かったので、百年記念塔のある稚内公園に上がると鹿が出迎えてくれた。雨が降っていたので、稚内市街がわずかに見える。そこから下りて、コンビニで水を買い、トイレを借りる。水を買ったおまけに小さな団扇を3つ貰う。

 知り合いのお寺に車を置くため、お寺に寄る。住職が親切に対応してくれ、ガレージの鍵を預かる。車でフェリーターミナルまで送っていって、荷物を降ろし、一人でお寺に向かう。お寺に向かう途中で、携帯電話が鳴った。何事かと思ったら下ろしたところが利尻や礼文に行く国内ターミナル(東日本海フェリーターミナル)だった。直ぐ引き返し、国際ターミナル(旅客ターミナル)へ送る。
 改めて、お寺の車庫に車を入れていると、住職が車で来ていて、国際ターミナルまで送ってくれるという。ありがたく、送っていただいた。国際ターミナルはまだ開いていなかったので、小雨の降る中で待っていた。
  7/25 8:31            ←大      
雨の稚内港:全日空ホテルと北防波堤ドーム
 2002年7月25日 稚内⇒165km,6h30min⇒大泊(コルサコフ)
 間もなく、別館で北海道日本ロシア協会の結団式とノマドの説明が始まった。ようやく、出国手続きをして乗船する。それにしても、3人の叔母さんの荷物がやけに大きい。ヨレヨレして持つのがやっとだ。愛棒と私で重そうなのを持つ。泥川組12名は1つのフロアに収まる。やれやれと思った瞬間だった。私以外みんな顔見知りなようで、話しが弾んでいた。私は期待と不安の入り混じった気分だった。どんな旅になることやらと思うが、兎に角、毎時17.1ノットの旅が始まった。
7/25 8:48 7/25 9:20(↑大) 7/25 9:20(↑大) 7/25 9:26
結団式 アインス宗谷 アインス宗谷へ乗船 船内でのくつろぎ
 甲板に上がると稚内港が良く見え、赤防、北防波堤ドーム、全日空ホテルが連なって見える。日本を離れるんだと思うと、何か物凄く不安な気持ちが襲ってきた。気を紛らわすために、救命ボートーや救命具入れと思われるカプセル等を見て回る。
7/25 10:00(↑大) 7/25 10:01(↑大) 7/25 10:02(↑大) 7/25 10:02(↑大)
稚内港を後にする 赤防波堤とホテル 甲板と救命ボート 救命用具
 甲板もうろつく所が無くなってしまったので、船室に入ると、ショップが開き、お酒が税抜きで買えるようになる。自動販売機では360mlのビールが100円だった。嬉しくなり、数本飲んでしまう。しばし、酒と疲れでうウトウトとする。私は、甲板に出て離れて行く宗谷岬をぼんやりと見つめていた。
7/25 10:07 7/25 10:08 7/25 10:30 7/25 11:19(↑大)
泥川ご一行様 甲板でくつろぐ 船内で 離れて行く宗谷岬
 札幌から夜通し走り続けてきた疲れがでたのか、泥酔してしまう。樺太の西能登呂岬(クリリオン岬)が左側に見えてくると、みなさんは落ち着かなくなり、船内をうろつく。右の中知床岬(アニワ)を過ぎ、泥川の目印になる軍艦山(臥牛山:西能登村の最高峰)が見え出すと、居てもたっても居られなくなるようだった。臥牛山(シーヴゥハ)をみんなで探す。あれだこれだと盛り上がるが、最後に、山を同定するのは鳴海さんだった。臥牛山は転覆した船が、右を船首にして腹を見せているような山だった。臥牛山は軍艦山とも呼ぶらしい。 
7/25 11:41 7/25 11:15(↑大) 7/25 12:18(↑大) 7/25 12:18
泥酔 西能登呂岬(クリリオン岬) 泥川を望む 軍艦山?
 大泊(コルサコフ)港が見え出すと、一斉に下船準備をする。コルサコフの市街や桟橋は予想していた以上に大きく、船舶の数も多かった。
 しかし、大泊(コルサコフ)港は、私の育った小樽と何処かが違うと思った。それは、船や施設が老朽化していることだった。埠頭には鉄屑置き場や建設中のケーソンなどが見られた。綺麗な崖の岩模様を見ると、隆起し侵食した地形であることが伺える。
7/25 15:08(↑大) 7/25 15:12(↑大) 7/25 115:14(↑大) 7/25 15:14(↑大)
停泊中の船舶 鉄屑置き場? 建設中? 崖の岩模様
 私の母は楠渓(なんけい)町にいたことがあると叔父が言っていたので、鳴海さんに楠渓町の位置を訪ねると、向かって左だと教えてくれた。ロシア領から日本領になったときに、日本軍が一番先に上がった所だとも付け加えた。鳴海さんは歳の割には元気で、やたらサハリンのことは詳しい。フェリーは向かって右側に着くようだ。
7/25 15:16                      ←大
大泊(コルサコフ)の市街や桟橋
 私は、船尾へ行って船の着くのをゆっくり見ていた。フェリーは後ろ向きにゆっくり接岸しだす。船着場にはバスが1台待っていた。「このバスは入国審査をする建物に行くために使われ、ピストン輸送する」と誰かが教えてくれた。皆さん下船をワクワクしながら持っていた。ようやく、バスに乗り入国審査をする建物に入る。
 私はロシア語は全くわからないので、入国審査で苦労した。愛棒はバカチョンカメラを申請しなさいと言われていた。私も早速、デジタルカメラを申請書に書き込むが、スペルが思い出さず、現物を出してかろうじて書く。数量は1とoneと併記しなければ許してくれなかった。
 鳴海さんは、長い荷物の中身を盛んに説明していた。後で分ったことだが、二段重ねの記念碑の柱だった。軽々と持ち運ぶので、もっと軽いものかと思っていた。
 どうやら入国審査が終わって建物の外にでると、ホテルのマイクロバスが迎えにきていた。
7/25 15:18(↑大) 7/25 15:21(↑大) 7/25 16:03 7/25 17:03(↑大)
後ろ向きに接岸 船着場 下船をわくわくして待つ 税関の前
 2002年7月25日 大泊(コルサコフ)⇒40km,1hr⇒豊原(ユジノサハリンスク)
 マイクロバスに乗り込みやれやれと思い一息つく。まだ、出発時間がありそうなので、外にでたら、現地の親子がいて、可愛い男の子だったので、みんなで話しかけたら、泣いてしまった。オモチャが無いので、稚内の商店で貰った小さな団扇を渡すが泣き止まなかった。
 ホテルのマイクロバスだと思っていたら、一般市民も乗り込んできた。コルサコフ(大泊)からユジノサハリンスク(豊原)までの道路はプーチン大統領が来たおかげで良くなったようだ。北海道と基本的には変わらない風景の中を走る。約40kmの距離を1時間くらいかけて走ると、ユジノサハリンスク(豊原)のツーリストホテルに着いた。豊原(ユジノサハリンスク)には愛棒の祖母が入院した病院と納骨したお寺跡を訪ねる予定だ。
7/25 17:04 7/25 17:05 7/25 17:16 7/25 17:44
マイクロバスでやれやれ 現地の親子 いざ出発
 ホテルに着いて、夕食をとる時間は、時差が2時間(2014.10.26から1時間になったが2016.3.27に2時間に戻った)あるので現地時間では、もう9時になっていた。食事は二種類の黒パン、カレイの蒸し煮、イカ、が出てきた。シンプルでヘルシーで、聞いていた脂っこさとはまるで違った。ビールを飲んでいると、急に眠たくなり、一行のブーイングを背中にして、部屋へ帰り横になる。
 今日はもう20時間以上起きている勘定になる。部屋のカーテンは幅の狭いふんどし状で、外が丸見えだった。外には船舶コンテナで作ったバーと思われる建物があり、テレビがつきっぱなしだった。しばらくして、相棒が部屋に帰ってきた。目がさめると次の日になっていた。
7/25 18:18 7/25 18:40 7/25 19:01(↑大) 7/25 19:32
ホテルのロビーに着く 夕食 カレイの蒸し煮といも ロシアのビール
 2002年7月26日へ続く