三船遭難慰霊之碑 慟哭の海に誓う |
<2009年8月25日> =このページは北の探歩訪のページの抜粋です= |
アクセス 留萌市から国道232号線(オロロンライン)を北上すると小平町鬼鹿に道の駅「おびら鰊番屋」がある。道を挟んで海岸線に「にしん文化歴史公園」があり、その中に鎮座している。 国土地理院地図 周辺地図 |
にしん文化歴史公園の中に「三船遭難慰霊之碑」があり、その下に碑文が彫られ、花が添えられていた。碑文の裏側には「小平町・全国樺太連盟・三船遭難慰霊碑建設鬼鹿委員」と刻まれていた。 |
公園 | 慰霊之碑 | 碑文 | 裏側 |
昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終る 終戦後七日 昭和二十年八月二十二日 早暁の海は波穏やかにして 微風甲板を 渡る この日泰東丸 第二新興丸 小笠原丸 の三船は戦乱の樺太(サハリン)より 緊急引揚の老幼婦女子乗組員 五千八十 二名を乗せ鬼鹿沖にかかりしが突如 旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い 瞬時にして沈没或いは大破し 千七百八名 の尊き生命を奪わる 留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし 故山を目睫にしてこの惨禍に遭う 悲惨の極みなり 星霜ここに三十年我等同胞慟哭の海に向 かい霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を 建つ 昭和五十年八月二十二日 樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会 |
隣りには「慟哭の海に誓う」の歌碑があり、献花されていた。何れも、ソ連への恨みは綴らず、戦争の愚かさ悲惨さを訴えかけている。 歌碑の前には、方位盤があり矢印は「泰東丸沈没地点」を指しているようだ。字は掠れて良く読めないが「泰東丸沈没地点/西南西約15,483M/水深60M」と三段に彫られているようだった。歌碑の裏には碑文があり当時の状況が刻まれていた。改めて、無念の思い出で亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ、天売・焼尻の浮かぶ方向に、受難の三船が樺太から来たと思われる探しようも無い航跡を望む。 |
慟哭の海に誓う | 泰東丸沈没地点 | 裏の碑文 | 天売焼尻を |
慟哭の海に誓う 一 夕日輝くこの海に 三船遭難誰思う 戦い終わりし七日目に 故郷の夜明けさいま見て 喜び胸に秘めた時 激滔と共に我船は 海のもくずと沈み行く ああこれが無謀な戦争か 二 母よ娘よ妹よ 叫べど返る声聞けず 焦れば焦る波間には 今見し我子見え隠れ 板子一枚命綱 沈みし船に巻かれずと 必死に泳げど覚束ず 戦いの無残さ今ぞ知る 三 あの日数えて五十年 悲惨の感が今もなお 二度と返る事なかれ 穏やか海に祈るのは 安らかに眠れと思うのみ 戦い興し無き誓い この碑に向い今叫ぶ 無駄にぞしない君の死を 平和の世代の糧にする 平成七年八月十五日 作 作詞 今村 武 平成十六年八月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺遺族会 |
昭和二十年八月二十二日九時五十五分 樺太からの引揚船泰東丸は、旧ソ連潜水艦 L一九号の攻撃を受け、鬼鹿沖で沈没しました。 懐かしの故郷の山河を目前に瞬時にして 奪われた六百余名はいずれも老幼婦女子 ばかりであります。 この非道な行為とその無念を晴らすため この町の有志は、泰東丸遭難者の遺骨収集 を行いましたが残念ながら一片の遺骨も 収集できませんでした。 今年で樺太引揚三船遭難六十回忌 泰東丸 発見から二十周年を迎えます。 この節目の年に、関係有志から樺太引揚 三船犠牲者の鎮魂のため歌詞の贈呈が あり、私たち樺太引揚三船遭難遺族会は 歌碑を建立し、泰東丸、小笠原丸、第二振興丸 の犠牲者千七百八名の鎮魂を謹んで ご祈念し、この歌碑を建立するもので あります。 平成十六年八月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺族会 |
=ロシア考= L-19潜水艦(コノネンコ艦長:第二新興丸の反撃で帰途に沈没、2007.7勲章授与)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長:帰還後勲章授与)、ソ連の独裁者スターリンなら勲章授与は分かるが、ロシアは何処に向かっているのだろうか。 ※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)を読んで・・・ふと思う・・ |