第二篇 能登呂村の概況
 第一章 地  誌
 一 位置・面積・地勢
  能登呂村は亜庭湾西部にあり、北は三郷村との境(牛荷山の北部)概ね北緯四六度三七分のところから、南は樺太の南端である西能登呂岬の北緯四五度五四分まで海岸沿いに南北に長く位置していた。東は亜庭湾(水平線より朝日が昇る)西は樺太山脈の分水嶺を以って西海岸南幌町宗仁村を国境にして能登呂半島を西海岸と西湾内で二分割した姿になり、稜線上には北から牛荷山、上梁山、運平山、臥牛山(泥川の奥地)十串山、稲穂山、白王山、等々の霊峰があった。
 海岸線の長さは南北に六十km、その面積は六千七百十四平方里である。
 樺太山脈を源流として西湾内に注ぐ主な川は北から雨竜川、菱取川、泊尾川、古江川、大吠川、内砂川、孫枚川、知志谷川、があった。これらの流域にはそれぞれ植民地があり(樺太庁植民地政策による)肥沃な土地形成をなしていたが、入植者は少なく耕作有効面積は全体の約〇.三%に満たず、樺太庁拓殖計画遂行には程遠い状態であった。またこれからの河口流域には集落地帯があり各々市街地を形成、漁業者を中心に色々な職業の人が集中、人口増加に伴い、学校をはじめとする官公署が設置され、病院、寺、等生活文化の基盤も着実に進行していた。
 また海岸沿いの砂浜には、ハマナスの群落があり開花期は一大自然公園となり人々の心をなごませたものである。

 二 能登呂村概説(大正十二年度樺太庁沿革誌より要約)
  一、行政は留多加支庁の管内に属し、村内を四大字に分ち、それぞれ総代を置いて村治を補佐していた。当時の人口は一、四六七人、四一五戸で、他に入嫁人が二、七六〇人であった。
 一、教育は村内に泊尾、古江、内砂、知志谷の四公立小学校があり、近く孫杖、犬吠の両部落にも設置準備が進行中だった。
 一、産業のうち、農業は二六〇戸だったがまだ移住したばかりの者が多かった。大根の生産は年三万円に達していた。漁業は漁民戸数は七〇戸あったが専業者は二〇戸に過ぎなかった。沿岸はタラ、カレイ、サメ、カニの好魚場で、ニシンの回遊も少なくなかった。林業は村の主産業で、大正十一年度の産出額は四十万石、百二十六万円に達した。
 一、神社仏閣は泊尾神社、能登呂神社、曹洞宗布教所(内砂)、真言宗布教所(泊尾)があった。
 
 三 行 政
 1 議会
  大正四年「樺太の郡及び、市町村の編成に関する勅令」により、十七郡、四町、五十八村に区画された、さらに、大正十一年、勅令第八号で「樺太町村制」の公布があり、十六郡、五町、四十二村となり、大正十二年四月一日より能登呂村役場が開設となり、所在地は雨竜に置くことになった。
 樺太長官の任命により、第一代村長は柳澤梅尾が着任。諮問機関として評議委員会は支庁長の任命するところにより十二名各地から選ばれた。(泥川は大田定衛、菅生文輔)
 昭和四年三月法律第二号を以って樺太町村制、同年六月勅令第百九十五号を以って同施行令の公布となり、同年七月一日より実施された。能登呂村村政は、住民の直接選挙による村会議員(定数十二名)が選出されることになり、従来の諮問機関として(評議制度)を議会制度に改正、議決機関として直接住民参加の村政に移行した。但し村長は官選であった。
 能登呂村歳入歳出予算(発見した分だけ掲載)
 昭和  六年度 歳入 二六、二三〇円 歳出 二五、六八一円
 昭和 十一年度 歳入 二四、六七五円 歳出 二四、六七五円
 昭和 十二年度 歳入 二六、四六一円 歳出 二六、四六一円
 昭和 十三年度 歳入 二八、九二二円 歳出 二八、九二二円
 昭和 十六年度 歳入 三八、三七四円 歳出 三八、三七四円

 2 戸 口
 大正 八年 三三三戸 二、三十七人 
 大正 九年 四一八戸 二、七一一人
 大正一四年 九七二戸 五、七五六人
 昭和 三年 六五九戸 二、九五九人
 昭和 四年 六六四戸 三、〇五九人
 昭和 五年 六九六戸 三、〇三〇人
 昭和 六年 七二〇戸 三、三〇六人
 昭和 七年 六二四戸 三、九五九人
 昭和 八年 七一九戸 三、三一八人
 昭和 九年 七四六戸 三、九五九人
 昭和一〇年 七八三戸 四、一六七人
 昭和一一年 六九八戸 三、四四四人
 昭和一二年 六五七戸 三、二〇八人
 昭和一五年 五三二戸 二、六〇六人
 昭和一六年 四八三戸 二、四一五人
 3 教 育 関 係
 ・学校数及び予算(大正8年)
  能登呂村村立尋常小学校   三校
   (年度予算)
  雨竜尋常小学校・・・・・・・・九七六円
  内砂尋常小学校・・・・・・・・九八〇円
  泥川尋常小学校・・・・・・・・七六八円
    内訳
     収入                       支出
      補助金         三〇〇円     教員報酬    五八〇円
      拠出金(後援会費) 四三五円      旅費        一五円
      授業料          三三円      備品消耗品費 一三四円
      雑収入            〇円      営繕費        八円
   (昭和五年)
      学校名           学級数    教員数  生徒数
      雨竜尋常高等小学校   四       五    一四六
      泥川尋常高等小学校   三       四    一一八
      内砂尋常高等小学校   三       四    
      知志谷尋常高等小学校  三       四    
      古江尋常小学校      一       一     一二
      幌内保尋常小学校     二       二    
      北孫杖尋常小学校     一       二    
      大吠尋常小学校      一       二     三六
      盛地尋常小学校      一       二     
      菱取分教所         一       二     一七
      内砂分教所         一       二  
                      注(校長以下裁縫先生も含む)

 四 能登呂村の地名(樺太中学校研究グループ発行資料による、関連分のみ)
  西能登呂岬
 原名 ノトロ
 通称 ノトロ岬、正しくは西能登呂岬
 解釈 ノツは顎、オロは「甚だ」又は「そこ」を意味する言葉であって、顎のように突き出した所、即ち岬の義である。露領時代はクリリオン岬といい、占領当時近藤岬と命名した。蝦夷地の探検家近藤重蔵に因んだものであるが、同人は樺太には来なかった。
  モルジ湾
 解釈 露語で海豚をモルジュという。露領時代海豚が多かったからである。
  地志谷
 原名 チシュヤ
 解釈 立岩の義。海岸を距る約二百米の海食棚上に、二見ヶ浦の夫婦岩にも比すべき二つの立岩が並んでいる。地形学上の棄子岩であって、海水の侵蝕し残ったものである。昔之をカモイ岩と土人の崇めたことは、林氏の紀行に記されている。
  内 砂
 原名 ナイチャ
 解釈 川岸の義。川幅約七米の河岸の聚落だからである。
  大 吠
 原名 オホイ
 解釈 河口の深い所の義。菖河谷の溺れたが為に生じた海渠が深く削り込まれているからである。
  問串
 原名 トイクシ
 解釈 道に泥土の流れ出した上を通行する所。
  古江
 原名 フルイ
 解釈 坂のある所
  泥川一名泊尾
 原名 トマリオンナイ
 解釈 北海紀行のトマリオンナイである。トマリは港、オンナイは内側、内側が港になっている所の義。砂嘴が川に突き出して其の内側が港に用いられていたからである。泥川は和人の命名したもので、河底に泥が多いからである。
  鉢子内
 原名 ハチャコナイボ
 解釈 ハチャコは赤児、ナイボは小川、小川の義。
  菱取
 原名 ペシュウツル
 解釈 ペシトル・ペストロ等に訛る。崖と崖との間を言う。此処には大きい崖があって、其間に聚落があったからである。
   雨龍
 原名 ウリリウシ
 解釈 邊要分界図や間宮林蔵の地図にウルーとあり、古くから知られた土地である。ウリリは鵜、ウシは居る、鵜の沢山居る所の義。昔此処の海岸に多くの鵜が棲息していたからである。
 此処の聚落をウリリ・オロ・コタンといった。鵜の居る村という意味である。
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