第三篇 泥川の概況
 第三章  教  育                      
 一 小学校
 (1)小学校の歴史
    一九〇五年(明治三十八年)に樺太が日本の領土となって、民政署は前記のように一九〇六年(明治三十年)に豊原・大泊・真岡に尋常小学校をつくり部落で運営をしていた。もちろん教師も部落において教師たるべき人を選んでこれにあてていた。泥川における小学校の開設については次のようである。
 一九一五年(大正四年)位置は詳らかでないが市街地に寺子屋式教育所(三浦利吉寄贈の建物で)が設置された。児童は十四、五人であった。教師として佐藤宇吉(佐藤吉太郎の祖父)が当った。
 此の教育所が出来るまでは、子供連れの移民の家では自力で勉強をしていた。教育所が始まると年齢に応じて学年が決まり、一年生から五年生まで一斉に入学となった。戸数が少なかったので五世帯位の子供であり教育の内容は、読み、書き、珠算であった。(太田サダの談)
 一九一七年(大正六年)十月私立泊尾小学校となり代教・鶯澤直人が着任した。
 私立泊尾小学校の一九一九年(大正八年)の運営費を挙げてみますと次のようになっている。
                           (樺々日々新聞道立図書館保管資料による)

      収入の部           支出の部
    補助金 三〇〇円    教員俸給   五八〇円
    醵出金 四三五円    旅   費     一五円
    授業料   三三円    備品消耗品  一三四円
    雑  入    〇円    営繕費        八円
                    雑  費       三一円
      計  七六八円             七六八円

 このように初等教育に対する経費は、公立になるまでは、補助金・父母拠出金でまかなわれたが、一九二〇年(大正九年)の「樺太公立小学校規則」が制定されて、公立になってからは、教員給は国庫負担となり、物件費は町村支弁とすることになった。しかし集団植民地や農漁業部落の学校建設費や教育経常費等に対しては、相当額補助金が交付されていた。
 公立移管に伴って校名も樺太公立泊尾尋常小学校となり校舎も市街地から奥地へ約一粁、村のほぼ中央地点に建設された(推定)通学区は半径約四粁から八粁まで泥川全域である。
 翌年一九二一年(大正十年)に高等科が併設され、古江・犬吠・菱取小学校通学区も拡大された。
 その後、大正十三年から昭和三年にかけて開拓者の入植が盛んに行われるようになり、造材事業も最盛期となり、また春鰊漁も好漁続きのため村の人口も増加して一九二九年(昭和四年)西側に校舎増築となり四学級編成となった。この状態も村の経済の主流をなしていた造材事業の終了の影響で、児童数の減少から一九三〇年(昭和五年)から三学級編成となり、この状態が長く続いた。余剰教室は女子の裁縫授業に利用された。
 一九三九年(昭和十四年)に青年学校が併置され、校舎の改築があり(特別教室、教育宿直室を合併)によって講堂兼屋内運動場となり、小学校・青年学校の教育両面に利用効果をもたらした。
 一九四一年(昭和十六年)戦時教育の強化が唱えられ小学校が国民学校となり、教育の内容も軍事的色彩が強くなり出した。産業の面においても国策として石炭増産がとられ、塔路等の炭坑地帯に移住する世帯が多くなり、昭和十五年頃より児童数の減少がみられ、また戦争による教員不足という条件が重なって一九四三年(昭和十八年)に二学級編成となり、一九四五年(昭和二十年)には児童数九十余名となった。
 終戦直後(九月~十一月)ほとんどの世帯が何らかの方法で引揚げ、学校も同年九月、一たん閉じた形となったが、武隈武夫先生が大泊より単身泥川に移られ、残留していた児童の教育にたずさわった。(昭和二十二年迄)

 (2)小学校の行事
    村のただひとつの文化的施設である小学校の行事は村全体の行事でもあった。
 小学校の運動会には隣接する小学校の生徒も一学級ぐらい招待して、対抗レースも組まれ、また、父兄も多数集まって、応援や父兄による競技もあって盛大に開催された。なお、冬になり積雪の多い日にはスキーで登校したが、二年生まではつっかけ式のもの、三年生になるとビジョウ式となる。皆んな三歳頃から乗っているのでまかなか上手である。放課後はスキー場に集まりいろいろの滑降の技術を磨くのである。毎年スキー大会が催されるが学校の裏山に続く東側傾斜の良好なコースのあるスキー場で、滑降、距離、ジャンプ等種々の競技が行われた。
学 校 行 事
行事 内容


入学式 4月1日 尋常科(国民学校になっては初等科)6年高等
科2年の学校生活が始まる
天長節 4月29日 昭和天皇の誕生日を祝う儀式が行われる。御真
影の拝礼、校長先生により教育勅語の奉読があ
る。村議、後援会長有志に人達も式に参列する
繁忙期休業 4月末頃 春鰊の大漁期、家事手伝で欠席する児童増加し学校
も休日となる(3日間~5日間)
同 上 5月末頃 農村の春耕、播種時に欠席する児童増加し学校
も休日となる(3日間)
春の遠足 下旬 鉢子内、古江方面を交互に遠足した
(古江尋常小学校の運動会に参加等)
大運動会 7月上旬 小学校、青年学校合同で実施する。村総出の運
動会であり大きな弁当の荷を下げた父母の姿が
朝早くからグランドを取り巻いた、昭和21年(
1946年)戦時体制のため実施されなかった。
夏休み 7月25日
~8月17日
夏休み学習帳があり、それを中心にした家庭学
習である。短い樺太の夏、川や野山で充分遊ぶ
秋の遠足 上旬 農村方面に出かける。
10 収穫祭 上旬 高等科の農業実習畠の収穫物(馬鈴薯等)を試
食する
11 明治節 11月3日 現在は文化の日、明治天皇の遺業(明治維新の
改革、明治憲法の発布、教育勅語の制定)を顕
彰するため明治天皇の誕生日を明治節として遺
徳をしのんだ
12 冬休み 12月25日
~1月20日
夏休みと同じに冬休み帳の学習がある、子供達
が一番楽しみにしていた年越し、正月があり、
カルタ、双六等の室内遊び、真冬のスキー遊び
で、この時期を楽しんだ
四方拝 1月1日 新年の儀式である、村の人達の参列も他の式日
より多かった。児童は後援会からみかんの贈
り物があり、一人2個~3個を貰う事が多かった
紀元節 2月11日 現在の建国の日、神武天皇国内統一の古事にの
っとってこの時を紀元元年としたという意味を
もった儀式であった。儀式の内容は天長節など
と同じである
学芸会 3月3日頃 ひなまつりの前後に行われる。夏の運動会と併せ
て村の人達の楽しみである。児童の合唱、遊戯
劇を繰り広げられる。青年団の参加した年も
スキー大会 3月上~
中旬
市街地の裏山のスキー場があり平常の冬の体育
の時間スキー学習もなされた。寒い時期なので
雪原に薪(長さ60cm直径20cm)をんで火をたき
暖をとりながら、小学生、青年学校、大人まで
参加しての大会である。どんどん火をたくので
雪が融け青い笹ののぞく大きな穴になったりした
卒業式 3月20日 卒業後進学、就職で村を離れる児童生徒は半数
にみたなく主として家庭(漁・農業)に従事した

歴 代 校 長 と 教 職 員
年代 校長 教職員 学級数
1917年
(大正6年)
私立・代用教員
鶯澤 直人
1919年~1929年
(大正9年~昭和4年)
蜂谷儀衛門 鶯澤 直人
高田  某
高田 孫七
鶯澤夫人(裁代)
2

4
1929年~1930年
(昭和4年~昭和5年)
菊池其次男 鶯澤 直人
本間 タケ
鶯澤夫人(裁代)
3
1931年~1933年
(昭和5年~昭和12年)
多田晴太郎 鶯澤 直人
北澤 計三
高橋  潔
本間 タケ
鶯澤夫人(裁代)
3
1933年~1937年
(昭和8年~昭和12年)
桜庭源次郎 高橋  潔
斉藤 栄松
長谷川 温
桜庭スエ(裁代)
3
1937年~1938年
(昭和12年~昭和13年)
安原  泰 斉藤 栄松
市川  一
中島  進
安原はじめ(裁代)
3
1938年~1943年
(昭和13年~昭和18年)
武隈 武夫 恵比寿 春雄
佐藤 吉太郎
中村 鉄子
武隈 テイ(裁代)
3

2
1943年~1944年
(昭和18年~昭和19年)
黒滝勇次郎 中村 鉄子 2
1944年~1945年
(昭和19年~昭和20年)
長尾 義之 中村 鉄子 2
1945年~1947年
(昭和20年~昭和22年)
武隈 武夫 1

 二 青年学校教育
    青年の教育機関として、一九二六年(大正十五年)四月勅令によって内地に青年訓練所令が施行されたが、樺太においても庁令をもって、各町村に「樺太公立青年訓練所」が設けられた。その趣旨は、村落の振興は青年の心身を鍛練し、資質の向上を図ることによって達成できるという考えによるものであった。
 一九三九年(昭和十四年)勅令によって青年学校と実業補習学校を併合単一化して、樺太公立青年学校と改められた。
 その年、樺太泥川青年学校が、小学校内に併置される。学校長は小学校長の武隈武夫(学科担当兼務)教練科目は、寺田友二・佐藤実教官、両人とも予備役在郷軍人であった。地域の青年は、いずれもまじめに通学し、真剣に授業に取り組み、訓練に励んでいた。春・夏・秋は軍事訓練が主で、週二回夕方より、必要に応じては朝から一日中行うこともある。冬は主に学科中心となり、屋内体操場でランプの下で夜間銃剣道の訓練も行った。特に戦争が激しくなると次第に訓練も実戦的となるとともに、生徒の中には志願によって兵役に服する者も多くなっていった。
 また実戦に向けて柔剣術大会が樺太全域で行われ、留多加管内は留多加小学校で開催、泥川青年学校も昭和十六、十七年と二回代表を送るがともに一回戦で敗退した。
 摺鉢山に完全武装での山岳訓練、消防番屋望楼台を利用しての対空訓練等に取り組んできた。戦争が長期にわたり人手不足・軍事優先の世情となった昭和十八年、十九年の冬期(十二月~二月)稚泊連絡船荷役作業に徴用され、亜庭丸、宗谷丸の夜間荷物積み下し作業に十五、六名が従事した。大泊港埠頭の日通飯場に寄宿、夜五時に出勤朝九時帰宅の激務であり怪我人も出た。青年学校は期間中大泊青年学校に転校週二回教育を受けた。
 その徴用と同じ昭和十八年十月に能登呂岬砲台建設工事に徴用され、武隈校長以下十五、六名が小型発動機船で出動し、一週間仮設飯場に泊まって作業に従事した。
 この間のエピソードであるが、日中雨の中で作業に従事した生徒を迎えて早く暖を取るため、武隈校長が燃えない石炭ストーブにガソリンをかけたのが運のつき、点火した焔はガソリン入れの一升びんの口に移りそのまま遠くまで火の手が延び、火災の危険を感ずるところまで行き、急いで皆で毛布等で消火したが、付近にいた将校が何事かと駆け込んで来たが校長の咄嗟の機転で難をのがれた。

 三 青年団活動
    青年学校ができてからは、同一行動だったので特に青年団活動としてはないが、大正十二年寺田正孝氏が模範青年活動家として表彰を受けているので昔の人々の青年活動は活発だったことがわかる。

 四 学校関係写真集
    
施設学校(小学校の前身)
初代の先生 佐藤宇吉

昭和4年 当時の泥川小学校
(昭和9年に西側で玄関と教室1を増設)

<昭和3年頃> 泥川の子どもたち

昭和5年 尋常科・高等科 卒業記念

昭和5年 雪中大運動会

昭和6年 尋常科 卒業

<昭和6年頃> 雪中大運動会

昭和7年 尋常科・高等科 卒業記念

昭和8年 尋常科・高等科 卒業記念

昭和10年 尋常科・高等科 卒業記念

昭和13年 尋常科・高等科 卒業記念

昭和16年 小学校全児童

昭和16年 青年学校

昭和17年 青年学校

昭和18年 青年学校

昭和18年 小学校全児童

昭和19年 青年学校

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