第三篇 泥川の概況
 第七章  想い出の記                      


  泥川の繁栄時代のこと            故 太田 さだ

 
泥川出身者の生存者中、年長者に入ると思いますので、泥川の一番景気の良かった時代の話を紹介しましょう。
 明治十三年(私が五歳の時)、先に父が藤田漁場に来ていた所(鉢子内浜)に一家で移住してきました。当時は、藤田漁場、白川漁場の関係者五、六軒のみ鉢子内に在住しており、泥川の市街の方には一軒も家がなかった時代です。
 木材、鰊、帆立貝等が豊富な所なので、明治の末期から昭和の初期にかけて、北海道や内地の方から続々と入植し出して、あっという間に泥川浜が大きな部落になりました。
 私の家も大正二年頃泥川に移り、家を建て(引き揚げるまでの場所)父は独立して泥川浜で二隻の帆船を持ち回送業者を始めました。大泊から食料を買い付けたり、遠くは利尻、礼文、留萌等北海道方面まで物品の販売(売り物は農畜産物)をやりました。
 やがて、菅生さん、大沢さん藤田さん等が色々な事業を起こして、皆とても景気が良い時代でした。丁度この頃(大正九年)から鉢子内、泥川の海岸線から奥地にかけて、鬱蒼たる原始林に松毛虫が発生、樺太庁令により一気に伐採することになりました。
 樺太庁の官業事業として行われたこの造材業は一、二年で泥川の人口を三、〇〇〇人位に膨れ上がらせました。その頃、一〇〇戸足らずだったのが、働き人が続々と入ってきたので、これに併せて色々な商売が集まりまり、人がうようよしていました。特に造材労働者の憩いの場は、飲食店(今の風俗業)、女郎屋(俗にごけやといわれた)でした。その頃、泥川には大きな女郎屋が五軒もありましたので、今記憶しているのを書いてみましょう。
 どの店も女の子を七、八人抱えており、場所は銀座通りより一段高い所にありました。店の名前は、紀ノ国屋(後に柿倉さんの倉庫になる)、寿屋(後に宮越さんの家)、津軽屋(寺西さんの坂の上にあった大きな家、沢田、高橋さん等入る)、幸屋(後に三浦さんの番屋 登坂の左側)、以上皆さんが知っているように二階建、もしくは個室のある家で、大きな建物で後々までその面影が残っておりました。
 旅館も私の家が二軒、菅生さんも二軒、そのほか藤田さん等たくさんあり、官業造材の関係する役人は泊りがけで仮事務所を持っていました。
 そして流送が大事業だったので、この方の関係者や人夫合せて、一〇〇人ぐらい入り、春先に泊尾川や鉢子内川の奥地の支流に堰堤を造り、雪解け水でどっと堰を切って流れ出す丸太の上に乗り、鳶一本で操る様はさながらサーカス並でした。
 さきに述べた泥川三、〇〇〇人時代は、この造材流送で働く人々が中核をなしたのでした。後々この人達の一部の人(約四〇人位)は、造材、流送で知った泊尾川奥地の流域(支流を含)に農村開拓者として入植しました。
 もっと細かく泥川の繁栄時代を書くと良いのですが、なにせ年が年で忘れた部分が多くて残念です。
 昔は法律で売春婦が認められていた時代なので、料理兼業の女郎屋の大きいのが五軒もあったことで想像して頂ければ幸いと思います。
 こうして大正九年から十三年にかけて大繁盛した泥川も官業造材が終ると同時に寂れていくことになるのです。これに拍車をかけるように、昭和十年から鰊は不漁になり農村地帯の人々は炭鉱景気の西海岸方面へと移動しだしました。
 以上が泥川繁盛記の一部です。



  往時茫々  =小学校入学時の追憶=     佐藤 吉太郎

 私が樺太公立泥川尋常小学校に入学したのは、昭和三年四月一日でした。
 同級生は、菅生四郎、松原修二、寺田明、佐々木重男、鶯沢雅人、高橋保、勝瀬輝男、大竹剛、藤田キリ、藤田ミサ、佐藤敏子、佐々木豊子の皆さんと記憶しています。
 その頃子供達は、着物に三尺帯、下駄履きで、風呂敷に包んだ教科書を、袈裟がけに背負った児童が大半でした。
 始業や修業の合図は、高等科の当番が柄のついた鐘を、焼芋屋のように「カランカラン」と手で振って鳴らしました。(サイレンに変わったのは何時からだったろうか)
 廊下で遊んでいた子供達は、急いで着席、一斉に「ハナ、ハト、マメ、マス」と国語の朗読を始めます。隣りの教室からは、「教育勅語」を声を合わせて朗読しているのが聞こえてきます。
 受け持ちの先生は、高田孫七という口髭に眼鏡をかけた謹厳な先生で、チョットでも悪戯をすると、容赦なく竹の鞭で「ビシッ」と頭をぶたれたものです。
 教室は職員室と校長官舎の間の一段低い古びた教室で、一年生、五年生、六年生が一緒の複々式でした。この時、六年生に松原廣さんがおりました。(翌年西側の端に新しい教室が増築された)
 先生は三人おられ、蜂谷校長、鶯沢直人先生のお二人共、口髭を生やしていました。田舎の小さな学校なので、講堂や雨天体操場はなく、朝礼は廊下で、祝祭日の式典や学芸会は、隣の教室との仕切り板を外し、舞台は教壇を並べて会場を作りました。冬の休憩時間は、廊下でや教室で遊び、男子は厚紙を幅一.五cm、長さ二〇cmに切った手紙の「ガッキ」、その他それぞれ自分で創作した木製の独樂等で遊びに夢中になり、女子は「お手玉」や、「おはじき」「あやとり」等で遊びました。
 四月に入ると雪が融け始め、若草萌ゆる五月になると、ようやくグランドや小川で遊べます。
 校庭の西端に氏神様があり、この境内でタンポポやクローバーの首飾りを作ったり、花に群がる蜂を捕ったりしました。(後にこの神社は学校の西方の摺鉢山の麓に還され、その後に奉安殿が建てられた)
 学校の裏にきれいな流れや池があって、真っ白い苞に黄色い坊主頭をだしている水芭蕉や、蕗のとうが残雪から顔を出し、音を立てて流れる清水に洗われていた風情や、ラッパの形をした紫色の小さな花を密集させて咲く「えぞえんごさく」をはじめ、黄色い可憐な花の「きばなのあまな」等が、一面に咲き乱れた光景が懐かしく瞼をよぎります。
 下校の時は随分道草を食いました。道路から少し奥に入ると、背丈より高く、腕の太さ程の蕗が、あたかもジャングルのように生えていて、虫の食っていない柔らかそうなのを六〇cm位の長さに揃え、背負って帰ったり、雨の日には、傘代わりにして歩いた。
 また途中、小川の土橋に靴を置き去りにして「うぐい」や「いわな」を釣ったり、横の沼地で蛙の卵にいたずらしたり、「トンギョ」を釣ったりしたものでした。
 お寺の横に広い牧場の跡があって、「エゾカンゾウ」の花が一面に咲いているのを摘んだり、駐在所の坂を降りた海岸沿いの小さな池で、家鴨や鵞鳥に石を投げつけ、「ガア、ガア」と鳴きながら、不器用に逃げる格好を面白がったいしました。
 流氷が去り穏やかな春の海に、石切りをして遊ぶ頃になると、大泊港から客や貨物を積んだ発動汽船が毎日運航して来ました。その艀の船着場に大きな鉄板倉庫があって、横の広い空き地で「地雷工兵」という陣とりゲームや野球に夢中になり日が暮れてから帰って、よく叱られたものでした。
 ようやく雪が消えて春まだ浅い暮色の海面を、真っ白なゴメの群れが、鰊の群来を報ずる頃、北海道方面から漁師の親方が「ヤン衆」を大勢連れて乗り込み、漁の準備に取り掛かると番屋は急に活気づき、小さな街は賑やかになります。やがて鰊の大群が、沖から産卵のため海岸に押し寄せると、学校は臨時休校になり老人も子供も総出で漁獲の手伝いをします。
 女の子は、子守りや炊事を手伝い、男の子はモッコをかついで船から鰊運びのアルバイトです。私はせいぜい船を浜に引き上げるとき「ヨイト巻け」に手を出して、邪魔をするくらいが関の山でしたが、終ると漁場の人達がニコニコ笑いながら、駄賃に鰊を沢山くれたので、何となく役にたったような満足感に胸を張って帰ったおのでした。
              *                         *
 山中の農家に育った私が、六歳で父に死に別れ、母は再婚したため、市街地の佐藤家のお預けの身となり隣近所の子供となじめぬうちに小学校に入学し、次第に新しい友達も出来、小学校三年生の時、正式に佐藤家に籍が入り、楽しく遊び回った六十数年前の想い出の記です。



  トッカリ捕り(アザラシの子)            岩野 由松

 泥川の海は、十二月頃までは寒気のためシャーベット状態から、やがて厚い氷に閉ざされる。
 この頃、波打ち際より海岸は一面の雪に覆われて真っ白になっている。
 子供の頃、朝早く棒を持ってこの海岸をトッカリ捕りに出かけて行く。やがて波打ち際から陸の方にかけて、雪の上に一本の幅広い線のようにトッカリの這い上がった跡を見つける事がある。その跡を静かに陸の方に十メートルくらい登って行くと、あの独特の黒い色をしたトッカリが眠っている。
 それとばかりに走り寄り棒で頭を一撃し脳震盪を起こさせ、さらにもう一撃でこれおを撲殺し、持参の縄で首を縛り意気ようようと引き揚げてくる。
 トッカリの毛は、頭から尾の方にかけてなびいているので、雪の上なら橇のように滑るので帰りはたいした苦労もなく、戦果を挙げて悠々と帰還するのである。
 この毛が逆になると滑らない特質があるので、従ってこの皮を乾燥して手作りの山登り用(特に狩猟用)のスキー(アイヌ語でストーという)の裏に張ると、雪の深い急な山登りでも真っ直ぐに登ることができる。それは毛皮の毛が逆立ちすると雪にささるからである。
 この特質を生かして、山歩きの鉄砲打ちや、造材の人々の山見回り等に活用されたのである。
 当時は、トッカリの肉は食べず、皮だけが幾らか(金額は忘れた)お金になったので子供心にも欲が出て、殺しの副業を覚えたものである。
 今思うとゾッとする。アーいやだ、いやだ、欲は・・・・・。兎捕り、ドブ鼠捕り、あの頃、子供達の間に流行した生活の知恵の一つであった。



  兎追いしあの山ヤマメ釣りしかの川     工藤 義治

 私が泥川に移り住んだのは、小学校二年生の頃だったと思います。それ以前の在住地は豊原市の近郊で豊岡という村でした。ここは地平線上に山影を見ることのできない平原地帯で、畑は広大な面積を擁しており畑地以外は見渡す限り苔桃(フレップ)原でした。蝉を追い、この苔桃原を思いっきり駆け回った楽しい思い出を残して、汽車に乗り大泊に出て、ここから泥川行きの厚田丸(発動機船)に乗り換え泥川へ到着したのが二日目でした。
 翌日、泥川の市街から馬車で植民地道路を奥地へ進み、さらに山間の細い農道を奥へ行くと私たちの住む藁屋根の家がありました。隣家とは数百メートルも離れた場所の一軒家に父母とともに一家九人が住むことになったのです。
 住み慣れない淋しい奥地に入り、幼心にもかってない異様な感じの印象を受けたものでした。上流を眺めると、遥かに聳え立つ臥牛山(グンカンヤマ)の雄姿を望み見ることができ、ここを源として、数十kmもあつ流れは数本の支流と合流して泊尾川となり泥川市街の南側を抜け川幅五十メートルくらいの大きな河口となります。この流域に沿って十数戸の農家が点在する一寒村です。
 ここに入植して畑作農業を営むことになったのですが、この流域は肥沃な土地で畑作には恵みを与えてくれました。泊尾川は流れの行く手を山または山に阻まれつつ、右に左にと曲がりくねりながら、亜庭湾に静かに注いでいるのです。この川は魚の宝庫でもありました。川の流れを支配する山並みは、臥牛山を頂きにして左右に分かれて、右は古江村、左は鉢子内へとその連峰は亜庭湾岸まで裾を延ばした奥深い山でした。
 山肌には、針葉樹や広葉樹などが生い繁っており、緑深い山間の渓谷地は昼なお暗くジャングルの様相に不気味な感じさえ与えるが、熊、狐、兎、エゾシカ等の野獣や、大小の野鳥の楽園でもあり、自然の動物園的な存在でした。
 当時は、造材事業が盛んでしたが、木材の搬出は川の水を利用しての流送の方法でした。川を堰止めて貯えた水を一気に放出して、丸太を同時に流すのです。渦巻く急流に乗り見事に流れる大量の丸太に鳶一丁だけの身軽な若者が、軽業師のように次々と移り渡り、数本の丸太を操りながら目的地まで送る果敢な作業の展開になるのです。危険なこの大人の仕事も子供たちの目には興味深く映り、楽しい風物であったものでした。そうして数年間続いた造材事業も終わりを告げることになったのです。
 それまでの作業場の川が、次は子供たちの遊び場の川と変身したのです。それはひと雨ごとの増水に乗り海から一挙に遡上してくる大量の魚群を捕獲することなおです。鱒の大群が薄暮れの浅瀬に背ビレを出して数条の水跡を残して上流へと産卵のため急ぐ様子は目を見張るほどの壮観さでした。数多い中の淀みに止まる魚群や、流木の下に入り増水に日を待つ魚群などで、さながら自然の水族館の様相でした。この時が子供たちの川遊びのハイライトとなるのでした。
 下校早々に鞄を投げ出しては漁獲具を携えて川へと一目散なのです。目指す鱒は群れをなして悠々の回遊です。胸は高鳴ります。ヤスを構えて呼吸を計り一突きとばかり狙うのだが、的が外れて尾ビレ近くに刺さっては大変です。鱒の必死に逃げようとする力に抗しきれず水中に引き込まれることもしばしばでしたが、このスリルある漁獲法は格別の魅力でもあったのです。川での遊びはまだまだエスカレートしていうのです。
 鱒捕りが動ならヤマベ釣りは静です。ヤマベ釣りは難しい、と古老は言います。なるほど、ヤマベは敏感な魚です。早瀬の淀みに回避している魚群が、水面近くを飛ぶトンボを目がけて三十cmくらいも飛び上がって捕る様子を見ることがあります。このような餌を求めている時でも、人間の気配には敏感に反応して水藻の中に隠れてしまいます。釣りの名人たちは、大川沿いに十mくらいも釣り糸を繰って、大きなビクに一杯の漁獲を得て夕方家路に急ぐのです。
 楽しみの夏が過ぎて長い冬に入るわけですが、自然が運んでくれる雪も一層パラダイスを展開します。裏山は格好のゲレンデとなり、ジャンプ、スラローム等自然が誂えた練習場に早変わりするのです。
 冬休みともなると、遊びの輪は一層広がります。スキーでの兎追いも楽しみの一つです。雪の上の足跡を辿って行くと必ず一寝入りしています。木の根元に避難用の隠れ穴を掘り、その前を踏み固めて目を開けたままで、耳を背負った格好の時が眠っている時なのです。目を覚まさないように静かに近づき、用意して持って行ったサン俵(昔、米俵は六十kg入れでした、総てワラを編んで造ったので、荷造りの時両口を米がこぼれないようにふさぐ、ワラで出来た直径三十cmくらいの円形の物)を兎の上空をかすめるように放り投げるのです。兎は不意の敵の襲来と思ってか慌てて避難口へ逃げ込み、奥へ向って雪穴を掘り進むのです。そこをすかさず近づいて、穴の中の後足を捕まえ引きずり出して捕獲するのです。
 一度こんな経験をしたのが、一層楽しい遊びになったようでした。こんな自然の村での原始的な生活環境文明文化と縁の遠い生活の明け暮れでしたが、うす暗いランプの灯の下で、薪ストーブを囲んで、今日の出来事を語り合う一家団らんの憩いのひと時なd、少年時代の思いでが懐かしく蘇ってきます。
 数多くの愛着を生んで、永遠の慕情を育ててくれた母なる地、思い出のあの山もあの川も今でもなお姿形を残して、四季の息吹を残していることでしょう。
 望郷の念は果てしなく募るばかりです。少年時代の思い出が半世紀過ぎても、忘れ難き追憶として懐古の思いひとしおであります。
 故郷を思い出し、少年時代の楽しかった事柄の一部をここに紹介して、追憶の一部の記述と致します。
         昭和六十二年(一九八七)十月二十日記



  思いつくままに(昭和二十年九月二十三日 樺太脱出の記)  寺中 君江

 あれから半世紀、五十年の長い年月が経った。国の運命を賭けた戦争(世界第二次大戦)も終わりに近い昭和二十年、北に南に我が軍の玉砕が報じられ、本土重要都市に米軍の空爆が続いた。五月頃より私たちの住む樺太能登呂村沿岸の静かな海浜の村にも、米軍の戦闘機が襲来するようになり、沖を通る日本の輸送船が次々に撃沈されるようになった。灰色に閉ざされた海の彼方から、突然ドカンと凄い音がすると同時に太い火柱が立ち昇り、船体が棒立ちになり二つに裂けるのが見える。後は黒煙が空をおおい何も分らない。
 村の人たちは、危険をも顧みず船を出して負傷兵を助け、軍のトラックで本部に送る。そんなことが幾度となく繰り返され、泥川の沖を通る船の姿も無くなり、鎮まり返った不気味な海を眺めつつ、言いようのない空しさが胸を突いてくる。
 八月十五日の正午、よもやと思った敗戦の宣告。ラジオで天皇陛下の悲壮なお言葉を頂き、無念と口惜しさの涙が尽きる事なく、母と子どもたちなどと一緒に声を上げていつまでも泣いていた。
 まもなく、ソ連兵の進駐。日本全土との交通遮断。身一つで本土への脱出を考えなければならなかった村人たちは、ソ連兵の危険から身を守るため、娘たちを山に隠し、大切なものだけを身につけてそれぞれ脱出の機会をうかがったいた。一カ月余りすぎた九月二十三日、思えば秋分の日であった。四里ほど離れた芳内の浜の隠れ家から、村の婦女子百人ほどが闇に紛れて密航船(小さな動力船)に乗り込むことができた。運賃は一人十円に米一俵という条件。身一つといっても各々の手荷物と人数で船は満載、それに船底に積んだ米の重さで船縁は海面に近い。釣瓶落しの秋分の日暮れは早く、真っ暗闇の中を船は出航した。
 不安の中にも敵地を離れ、明日は懐かしい北海道に着く。ソ連の監視兵に捕まらないよう神仏に祈りつつ凪とはいえぬ船の揺れに身を任す。疲れが出たのか皆もうとうとして静かに時が過ぎて行く。
 「監視船の灯が見える」、船員の声がした。ハッと思ったが身動きが出来ぬ。自分等には何も見えない。ポツリ、ポツリと雨が進むにつれ、船は大きく上下に揺れ始めた。打ちつける波のしぶきが船縁を越してなだれこむ。
 風は益々強く、しぶきを被る人達の悲鳴が聞こえてくる。荷物の上に人が、人の上に荷物と狭い船内は身動きできず、しぶきが入っても逃げることも出来ない。波はいよいよ高く、船は奈落の底に沈むかと思えば高く浮き上がり、生きた心地がしない。これで一度大きな波がきたら終わりだと思った。
 私は、その時もし運がなく遭難するような事があっても、家族は皆一緒、他の皆さんも同じ運命を天に任せて、この難関を突破しなければとひたすら神に念じた。
 その時、母の大きな声を聞いた。
 「ムシロをこっちへ投げてくれ、子供達を動かさないように結わえてくれ」と、必死に叫んでいる。
 ムシロは波避けに皆にかけられた。私たちのいる船腹と機関室の間の狭い所にいた少年たちも波や揺れに飛ばされぬよう手配をしてくれたようだ。母は船酔いの人たちの介抱をしながら、大丈夫、大丈夫と船内の人たちを励ましている。
 怒涛は容赦なく船を翻弄し続ける。人々は声もなし。
 「助け給え、守り給え」と母の祈願の声だけが嵐の狭間に聞こえてくる。
 私は、この時、母は強い人だと思った。なん時ほど立ったろう、しぶきが船内に入らなくなった。風も少し弱まったようだが、船は木の葉のように揺れながらそれでも前進しているのだる。大きなうねりを一枚一枚越えて行くのがわかる。母の声も聞こえず船内は静かになった。それから幾時間くらい経った頃か、何かガヤガヤと人声がする。
 ヒュウ、ニュウと吹き通す冷たい風に仮寝の目覚めは早く、皆一斉に起き上がる。
 「朝だ、助かった」
 あちこちから喚声が上がる。夜はまだ明けきらず、ほの暗い視界に見える物は波を蹴立てて行く船の潮の流れ。ふと気が付くと後方に川崎船(帆掛舟)が二隻、私たちを乗せてきた船が途中から曳船をして来たらしい。しらじらと明け始めてきた。二隻の川崎船とも人が大勢乗っている。ああ、良かったみんな助かったのだ、あの方たちもどんなに恐ろしかったことか。
 大海の真っ只中、吸い込まれるような深い水色、波頭は白くまだすっかり凪いではいない。いつの間にか曳船は離されていた。
 「どうぞ、無事に陸に着けますように」と祈った。
 明けきった空は青く、秋の日差しは柔らかく、生き返ったような気がする。八時頃でもあろうか、左手に陸地を見ながら船は北上しているようだ。私は不思議に思って船員に、「ここは何処ですか、左手に見えるのは北海道ですか」と尋ねたら、昨夜はソ連の監視船に追われて、大灘に出て北見枝幸の沖まで下った。今、稚内に向けて北上しているとの事。道理で随分時間がかかったと思った。間もなく稚内に着く。若い人たちは元気に上陸の用意をしている。
 二十四日十二時少し前、ようやく埠頭に着いた。秋田丸の船主(山田さん)が迎えに来てくれて心強かった。とにかく全員無事に上陸できて本当に良かったと思った。
 駅前の指定の旅館で、皆心身共に疲れを癒した。翌朝、駅で弟の悲報を聞く。胸が詰まって涙もでない。
 命がけの十七時間、それでも迎え入れてくれる本土があった。先のことは分らないが、安心して住める大地があった。神仏のお加護を戴き、無事脱出できた事は、万感胸に迫る。
 一生涯忘れることの出来ない、私の思い出である。



  厚谷 葉子の思い出歌集   旧姓 佐藤 葉子

 (昭和二十年五月作)
   泥川の川面に映える夕月や 山影淡き雲のたなびき
   今日もまた朝は明けたり決戦下 暑さは何ぞ銃後の我ら
   ホウホケキョさえずる声にふと見れば 鍬持つ手をもしばし忘れむ
   一片の雲影もなき大空に あくまで清き月のさやけさ
 (昭和二十年八月 増産に)
   をちこちに日に輝られし芋の花 励み甲斐ありしと一人笑み
   そよ風に浴びつつ励む増産は 心に何か強くささやく
   昼食に弁当の蓋とれば 蝿が子をかけ我は驚く
 (昭和二十年八月十五日 終戦)
   我が国は神国なりて負け知らず 続きて来しが今は消え失せる
   国民を想いし心深かりし君 悲し涙に無条件降伏を
 (昭和二十年九月 泥川を離れる時)
   静かなる夜明けを待ちて荷を背負い 川辺に映る月影寂しし
   今は異国となりし空眺め 悲しき心に最後の別れ
   かくあれやこれが最後と想うれば 育む二十年思い出多し
   眺むる山川草木懐かしき 異国となりとも変わり
 (昭和二十年九月二十二日)
  午前二時、星はこうこうと輝き芳内にと大勢で向った。菱取を越えんとする時太陽はゆうゆうと昇る。
   住み慣れし故郷を背に去り行きぬ 別れ別れてまた逢う日まで
   とぼとぼと歩み来るは夜中道 親子別れて寂しさ覚ゆ
   星明り月影淡き道筋を 友と語りつ歩み来たり



  敗戦後の泥川の思い出      黒田 寿子

 昭和二十年九月の初めごろのことです。お天気が良いので私たちは農村へ行こうと思い、歩いて四十分の所へ来た時、突然うしろからトラックの音がした。
「ソレッ、ロスケ(ロシア兵)が来た、逃げろ」
 私たちは一目散に森へ向って逃げた。トラックの音が近づいて来た。もう森までは、逃げられないと判断、とっさにジャガイモ畑の畝の間に伏せた。芋と芋の茎が覆いかぶさり、私の体がすっぽり隠れることが出来ました。
 もう大丈夫と、息をひそめじっと腹ばいになり、被り物をとり腹の下に敷いた。トラックの音が消え、ロシア語か何なのか訳の分らぬ言葉で、がやがや騒いでいるのが聞こえる。私の逃げるのが見つかったようだった。間もなく森の方向にパンパンと何発も撃つ銃声が聞こえる。私は生きた気がしない。
 ピュウ、ピュウと銃弾が頭上を飛ぶ。あの弾が落ちたら死ぬ。この弾が当ったら死ぬ。死を覚悟で耐えれるだけ耐えた。
 かなり森へ銃を撃ち続けていたが、敵もあきらめたのか、今度はがやがやと話声がして、数人の足音が近づいてきた。ああ、遂に見つかったか、銃殺を覚悟で目を閉じ、じっと息をこらして沈黙を続ける。気が付くと話声も足音も、森の方向へと遠のいて行った。
 ああ、助かった、自分は生きていたのだと、嬉しさがこみ上げてきた。でも、まだまだ油断は出来ないと頑張った。お腹が冷えて来るのが感じられた。辺りはすっかり静かになり、聞こえるのは風の音だけとなり私も安心したが立ち上がろうかどうかと迷った。
 その時、遠くの方で
 「オーイ、オーイ何処にいる、出ておいで」と私を呼ぶ声が聞こえた。
 やっと、安心して起き上がり、「芋の茎よ、有難う」と、感謝の気持ちで立ち上がった。
 二時間余り生死をさまよった、生涯忘れ得ぬ思い出の一つです。
 「灯台もと暗し」
 足元の芋畑に、私が隠れていつとはロスケも気付かなかった。芋畑よ、有難う。



  樺太泥川への追憶       鳴海 一郎

 失われた大地、樺太泥川への追憶は独り私に限ったことではなく、泥川で生まれ育ったほとんどの人々は、きっと日本時代の樺太泥川の素晴らしかった楽土の思い出に、私以上郷愁を深めているの違いないと思うし、何でもよいから、故郷へのペンを記しておきたいと思うものでである。出来ることなら、樺太が日本に戻ってくる日を期待して。
 そして、せめて自由往来ができるようになって欲しいし、平和で楽しい地球を世界の人々と共に創り上げて行きたいものである。
 現在生きている人々のテーマはこのことであるのだろうと思う。五十有余年前の記憶を辿りながら、脳味噌の奥から引き出して、二、三記してみた。
 その一 兎の罠
 昔、子供の頃泥川の山や畠に野兎が沢山いて、冬になると餌や友達(発情期)を求め、おもに夜中中走り回る。但し、日中は穴の中に入りあまり移動しない。そして歩くときは必ずと言っていいくらい自分の歩いた同じ道を何回でも歩く。この習性に着目したのが”針金の罠”で兎をとる方法(子供心にもだいそれた考え)である。罠の掛け方は、兎が歩く高さをまず考えて十六~十八番線くらいの針金を一メートルくらいの長さに切り、一方の先端を五cmくらいの輪にして捻り曲げ、その中に片方の端を通して、兎の二倍くらいの輪にして作った罠を木立には横に、枝木からはずり下げて兎の目につかぬように仕掛けておく。
 兎が飛び歩いていて、罠に頭が入ると、進む勢いで首が締まるようになる。これで兎がびっくりして暴れ出すと益々針金が締まりやがて窒息する。なかには、首の位置から針金がずれている場合、朝見回りに行くとまだ生きていて暴れる場合がある。この時は、撲殺か締め殺すか無惨な行為をする。
 高等科一年生の頃、「オーイ行くぞ」隣の福島留吉(別名オドー)さんが、朝まだ暗い内に起こしに来る。親、弟、妹達に黙ってはね起きて零下二〇度もあるのにラシャの学生服に、毛糸の手袋、頭は毛糸の耳掛けだけ、このスタイルでスキーをはいて出かける。(今、思う昔の子供は強い、本当に風の子だった)
 区域は、ほぼ決まっている。大体一時間~二時間で学校へ行く時間まで兎が捕れても捕れなくてもひと廻りして帰って来る。
 まず、国道を古江方面へ進み、太田さんの坂より右側の林の中に入り、そのまま傾斜地を川に平行して奥地に向い一kmくらい行くと今度は川を横切り、国道を横切って学校の裏山に入り、スキー場の下の山裾あたりで終りになる。この間五十箇所くらいにかけた罠を調べて歩く。
 「アッ、兎がかかっているぞ」恐ろしくてオドーに頼む、オドーはストックで一撃する。二度くらいで兎はダウンし、けいれんして死ぬ。これが収穫物、意気揚々と兎を担いで帰って来る。これおで一巻の終わり。
 兎は冬場、木の芽を喰うので、樺太林務部では捕獲を奨励しあったので一頭分の耳を(天然色だけど耳の上部が必ず黒くなっている。十銭くらいで買い上げた記憶がある。皮は剥して広く延ばして乾燥させこれも売れた。
 そうして、ひと冬三十頭くらい獲ってそのお金でスキー一揃え三十銭くらいで買った覚えがある。そのスキーも一週間も経たないうちにスキー場の根株にぶつけて鼻先を折ってパーになった。
 その二 悶者船
 何時の日だったか時は忘れたが、概ね昭和十一年秋ごろだと思う。森山さんの船が知志谷方面へ漁に出かけて遭難にあい(発動機船で三人乗り)昆沙讃の小さな湾で待機していた時に夜中の突風で横波を受け船内で仮眠していた三人が海に投げ出され死亡した時のこと。
 泥川から死体を迎えに行った船が夜になっても帰ってこない。部落の人は総出で海岸に大きな篝火を焚き待つこと幾とき、電話も無ければ無線もない連絡のないまま心は焦る、二重遭難か、否、機関の故障だろう。皆で心配することしきり、日が暮れて三時間ぐらい経ったとき、古江側の岬の沖合いに一点の灯がみえた。それ、来たぞよかったなあ、そんな会話を続けながら待っていたが、灯は一向に大きくならない。しかし、船を漕ぐかけ声は聞こえるぞ、ほら、耳をすませてごらん、よし大丈夫だ、もうすぐだ、なんて言っているうちに、灯は段々大きくなってきた。アッ暗闇の中からボーっと船体が見えだしたと言うものも出てきた。だが、待てど暮らせど目の前には現れず、とうとう十二時過ぎになり皆諦めて家に帰りだした。
 次の日の情報では三人の全部の死体が上がないのと、機関の故障で出発を見合わせたとの事。何のことはない、待つものに見せた船の灯と、カケ声は悶者船の亡霊だったのだ。
 悶者船とは、遭難して死亡した人々の怨霊が、夜中、手漕ぎの小さな船に乗っているところへ、底無しの船に乗り近づき、アカトリ(船の中に溜った海水を船外にかぎ出す用具)を貸して欲しいと要求する。そのままアカトリを貸してやると、そのアカトリで海水を貸した船にどんどん入れて沈没させ、遭難させるという伝説である。
 従って、悶者船に出会ったら、アカトリの底を抜いて貸してやることと教えられる。
 目と心の錯覚は恐ろしいもので、私も何度か遭難したが(特に、夜半に多い)全く根拠のないものでである。戦地などでは精神的決心をしているせいか、または心の迷いがないせいか、亡霊などは話に出ない。
 その三 ああ、無残、銃剣術大会
 昭和十五年十一月の初めごろ、留多加町で、管内の青年学校対抗銃剣術大会が小学校の体育館で行われたときのこと。
 泥川青年学校が始めて大会に参加した。教官寺田友二伍長、選手は高橋保、森山留太郎、福島留吉、島田正夫、鳴海一郎(私は数え十五才で二年生)以上五人。
 前日、雨龍まで歩き、雨龍よりバスで留多加へ、翌日大会に参加、練習不足のため惨敗となる。その夜、残念会、カフェーに行く。軍国主義統制時代のカフェーは何もない。しかし、酒は飲んだらしい。(私は、酒が飲めなかったからお供しただけ)ところが、女給の中にパーマネントをしていた女がいた。教官寺田伍長はその女に因縁をつけ「何だ、おまえ、大和女がこの戦中にアメリカ式のパーマネントは軟弱だ、けしからん」すると女は、「女の身だしなみ、そんなことは自由です」と反論、口論となり、カフェー側では店の争いは他の客もいることだし、早速警察に通報、(私は、その時は引き揚げていたから目では見ていない)巡査一人来る。今度は巡査と教官の争いに発展(教官少々酒が回っていたらしい)巡査「外へ出ろ。本署まで連行だ」、教官「何処へでも行くさ」と二人は外へ出た途端、取っ組み合いの喧嘩となり、道路の雪の上で組んづほぐれつ、喧嘩は教官が勝ったが、最後は公務執行妨害、官服損傷の罪により留置場入り、すぐ、宿に警察から電話で呼び出し、同伴者すぐ出頭せよ、その時”未成年者酒飲むべからず”の法律があるので、「鳴海お前隠れていろ」と言い残して高橋先輩以下四名は、夜半に警察署に行く。しかし、騒動には何らの関係がないので、ただ、未成年者飲酒注意だけで釈放され宿へ帰る。(青年は二十才以上高橋さんのみ。)皆が警察から帰って来たものの、一睡も出来ず、教官の安否を気遣う。軍国時代だし、伍長の肩書きもあるし、巡査より位が上だから、きっと大丈夫だろう、二、三日で帰されるだろう、と心配をあとに次の日予定通り帰らないと家の者が心配するので、昼頃のバスで雨龍まで、雨龍から雪の山道を六里歩く。夕方からだったので中間の菱取からは、夜空の星を見ながら誰も声もなくとぼとぼ休みなく歩くこと六時間。出迎えの人たちに何と報告したら良いか道々迷う。特に良い知恵が浮かばず、行くときは教官以下五人、帰りは教官がいない。困って嘘の報告しよう。教官は急に用事が出来て大泊へ行った。(これは、家族に通じるかが心配)いや、雨龍の親戚に一泊することになった、などいろいろ考えたが名案が浮かばずのまま到着したら、武隈校長以下沢山の人達が、案の定市の北側の端の国道上で出迎えてくれた。試合の負けの報告はよいが、教官はどうした、と聞かれてやむなく本当のことを言う。さあ、大変、事件だ、一刻も早く救出に行かねばと、武隈校長と、うちの親父が馬橇でその夜ただちに出立する。
 次の朝、留多加警察署に面会を求めても拒否され、教官は憐れにも豊原検察庁送りとなった事件。以下省略。
 生まれて初めて国家権力の怖さを知った物語である。



  帆立曳き=何故かこう言った=           高橋 清

 天気予報について、科学的手段を持たない時代は漁師の永年の感で総てを計る。まず、前日夕焼け雲(雲のあるときと、ないときはまた違う)、夕陽が山中へ沈むときの状況から判断して、明日は時化、凪を頭の中で決める。
 次の日の朝、水平線から昇る太陽の姿、および雲の走り具合いなど総合判断(勿論海は穏やかであるする。晴天のときは、必ずといっていいくらい確実にある。さて、一日四回食べる朝食を済ませ、長方形の木造りの箱型(オヒツ)に三、四人分のご飯を沢山詰め、海産物を主体にしたお菜(オカズ)、漬物などを入れ、鍋と味噌は別に用意(これは、沖合いの船上で獲り立ての帆立貝の小さいのを、生きている貝の中から取り出して入れる。具は馬鈴薯他野菜類を刻んで煮るばかりにして用意してある)。その他、飲料水を大きな入れ物にいれて万事、陸回りの女房たちが準備万端滞りなく船に積み、漁場の親爺はじめ三、四人乗り込んで船出する。総て櫓を主体にする手漕ぎ和船に帆を積んで動力としている。
 前述の陸の方から吹く小嵐に、皆で手ぎわよく帆を張り、順風満帆で労少なくして心地よい帆走を続けること二十分、約四kmの沖合いで、前述漁の良かった地点に錨を降ろす。帆を降ろしてたたみ、作業にさしつかえのない所に収納し、帆立て巻の準備にかかる。
 帆立貝の採れそうな所を見つけ出すのが船頭の腕。方法は沢山あるが、機械のない時代だから、原始的方法に頼る。(ここで、解説するのが困難なので省略、知りたい人は、経験者に聞くこと)
 しかし、これが海が荒れていない限り奇妙に当たる。
 さて、帆立て巻きにかかるとしよう。-水深十尋前後、錨に繋いだロープ三cmくらいと巻網との繋目(二十メートル)に浮き玉(ガラス玉、または、一斗樽の鏡のあるもの)を付け、それより細い二分丸くらいの丈夫な麻紐の編んだ物を延ばしながら、櫓を漕いで五十メートルくらい先の海底に帆立がありそうな地点へ向けて船を進める。延ばし終ったら、一人はその網を巻くロクロで、力一杯猛スピードの回転で巻き出すと同時に、他の二人は船の両側に積んである八尺という鐵の棒で組み立てた物に袋物がついた五十kgもある重いホタテて曳きの道具をザブンと海に投げ入れる。
 この時が、一番大事で技術を要する。素早く確実に八尺が正常な姿で、海底に上手に沈むかどうかが鍵、逆さまになると、一回分のくたびれ儲けになる。しかし皆さんは達人者、一年中で失敗することは一回くらい、投げ入れた八尺にはロープ(三分、四分の強い麻紐)が繋がっており約三十メートル延びるとストップ。
 一方、早巻きしていた人は、双方の八尺が海底に沈みストップすると、どんどん手応えがあり、一人では巻けない八尺を投げ終った二人は、すかさず早巻きのロクロの所へ行き、三人で今度は大きな巻き機で共同で皆精一杯の力を出してこの五十メートルの網を巻き終える。この時のかけ声が帆立て巻きの基礎歌に合わせて、思い思いの即興の替え歌を作り、この作業を一日中繰り返す。
 この距離の網を巻き終えると、今度は船の両方に曳づって海底の帆立て貝をさらってきた八尺の巻き揚げにかかる。三人手分けで同時に巻き上げ、片方づつ船べりから八尺を揚げ網の袋から漁獲物を出す。中には海底の石から帆立て貝をはじめ、変わった貝、ウニ、海草、時には蛸や藤子など諸々の物が入ってくる。帆立て貝のみごっそり入ってくる時は大漁の時、平均十五、六枚、両方併せて二十枚から三十枚あれば上等な方。この一回戦が三十分くらいかかる。こうして、一日中約十時間から十二時間くらい、ほとんど昼食の時間以外は休みがない。力一杯櫓を漕ぐと、曳網を巻くことと両方の八尺を揚げるロクロ巻き、石の入った重い八尺を船の中に引き揚げることなど力を抜く暇がない。
 だから、沖では三回ご飯を食べる。十時頃と二時頃腹がすくから、ドンブリで大飯を喰い、この時の造りたての味噌汁が旨い。恐らく天下一品だろう。
 今日、こんな贅沢な料理はないと思う。
 ※こんな調子で最後まで書きたいが、あまり皆さんに興味がなければ止めておこう。よければ、北寄貝採りも書く。



  鱒の刺し網               (旧姓田中)杉本聖一郎

 泊尾川の河口で、職業でなく高学年の子供が中心になり、遡上する鱒などを河口で捕獲すること(趣味と食用)も盛んに行われたものである。その方法を紹介しよう。
 先ず、川の両岸に杭を打ちこれにロープを張る。そのロープに鱒目の刺し網の上部を通して岸から岸へ一杯にはる。網の下には重りがついているので、底に沈み川を遮る垣根のようになって、流れもあるので網は膨らむように目一杯に拡がる。
 この川を横断した刺し網で魚の遡上を遮断するのである。これで用意万端が整ったのである。
 夕方、これをセットをして川岸に用意してある小屋で鱒の遡上を待つのである。
 しかし、大勢で各戸毎にこの網を張るので、河口から順次階段的に刺し網が何本も川を横断する形で並ぶ。一番河口に近い網に鱒がかかることになるが、それより上の網に鱒が全然かからないかというとそうでもない。それぞれの網底から、或いは網の破れ目などから逃れた鱒などが次々の網にかかっていくから面白いのである。
 やがて刺し網に鱒がかかると、バシャ、バシャ、と水音を立てて暴れるので水面にしぶきが上がる。それっとばかりに小舟でロープを伝いその箇所に行き、網もろとも逃しちゃならぬと船の上に揚げる。この時慌てて逃したり、網が破れて逃がすなどするので、網にかかったからといって必ずしも撮れるとは限らない。刺し網の醍醐味はこの瞬間にある。
 バシャ、バシャソーレ行け、水の中に両手をいれ、銀光のする鱒と格闘しつつ、ずぶ濡れになりながら素早く船の中へ網ごと揚げるのである。これが楽しみで暗い川岸で待っている。子供だから夜九時頃までやって、明日の朝を楽しみにして帰る。
 朝、河口に行ってみると刺し網にかかっている鱒で、生きているものは暴れているし、すでに死んでいるものは白い腹を出して網にからみついたままになっている。
 こんな事をして短い夏を冒険的に過ごしたのである。



  恐怖の一ケ月             鳴海 二郎

 敗戦が近づく
 昭和二十年にはいると、太平洋戦争もいよいよ末期の様相を呈し、本州方面では、連合軍の連日の空襲により、すっかり焦土と化しているのもかかわらず、戦争指導者の無謀な方針により、国内には本土決戦という悲壮感が漂っていた。
 私たちの住んでいた泥川の周辺でも、春から夏にかけて宗谷海峡付近に、アメリカの潜水艦が出没していることは噂になっており、沖を通る輸送船も平常ならば、海の凪の日に通るのが普通なのに、この頃はわざわざ荒天の日を選んで船団を組むようになっていた。
 六月の初旬、内砂沖で貨物船第一札幌丸が潜水艦の雷撃を受けて沈没したが、この時は泥川の浜からもよく見えた。
 七月中旬、私は対空監視の訓練で知志谷にいたが、十八日の昼近く連絡船宗谷丸が孫杖の沖合いで、潜水艦の攻撃を受け、必死にこれをかわすべくジグザグに航行していた。私はこの時、丁度双眼鏡を覗いていたが、そのうち潜水艦が魚雷を撃ったらしく、後方にいた護衛艦の海防艦一一二号が連絡船をかばうようにその間に入ってきた。一瞬、大音響と共に一一二号は火柱に包まれ、煙が風に吹かれて消えたときは、艦首を上にして半分沈みかけていた。まるで、宗谷丸の身代りの様であった。そして、この時の模様は堅く口止めをされたのである。
 その頃、空襲警報はたまにしか入らなかったが、国籍不明の飛行機が来襲した時は、弟(三男)と二人で坂の上にある古い火見櫓に上がり、サイレンを力いっぱい鳴らしたこともあった。
 八月に入り、戦雲いよいよ急を告げる頃、父と私は二人で裏の崖を利用して防空壕を掘り、タンスなどとりあえず生活用品を運び入れ、やがて来る決戦に備えていた。

 そして終戦となる
 運命の八月十五日は、晴れていて暑い日だったように思う。昼近くになって、「重要な放送があるので学校に集まるように」、という指示があったが、この頃は、ソ連の参戦により敷香方面より毎日のように民間人が逃げてきていたので、いよいよ樺太も玉砕組か、と話しながら学校に集まり講堂に並んで、ラジオから流れる天皇の玉音放送を聞いた。余りよく聞こえなかったので内容は判らなかったが、しかし、戦争に負けたと説明されみんな声を上げて泣いた。
 翌日から、今後の生活への不安や、将来への心配などで落ち着かない日々を送っていたが、各地から伝わるソ連兵の略奪や、婦女子への暴行などの噂に不安を募らせていた。
 海上では毎日のように、小さな船に数人が乗り込み、北海道を目指して逃げて行く人たちがいて、私達も浜に出ては「あんな小さな船で大丈夫だろうか」と心配するとともに無事北海道に着いて欲しいと願うばかりであった。
 私たちは、あくまでも政府による正式な引き揚げを信じてじっと待っていたのである。
 しかし、八月二十二日に豊原の空襲があり、空を覆う黒煙が泥川の浜からもよく見え、不安がますます募る中、翌二十三日には、ソ連から海上航行禁止の布告が出されたと伝わり、政府による引き揚げは絶望と考えられるので、自力で北海道に渡るしかないと決心したのである。
 八月末近く、ソ連軍が進駐して来ることになり、それを迎えるため白旗を揚げるのか、または、ソ連の国旗を揚げるのかを、村の指導者たちは協議したらしいが、結局、両方を各戸に揚げることになった。
 八月三十日頃だったと思うが、ソ連兵がトラックに分乗して進駐してきた。我々も迎えに出たが、始めの兵隊たちは、比較的紳士的で、日本軍から押収したと思われる甘味品などを我々に配ったりした。早く言えば元の日本軍の宣撫班のような立場の兵隊たちではなかったかと思う。迎えるための旗も、白旗ではなく赤旗を揚げるように言われた。

 ソ連兵による威嚇射撃と略奪
 九月に入ると、連日のようにソ連兵の略奪が始まったのである。私の家の前が、魚の乾場になっているため、ソ連兵のトラックの好都合の駐車場になり、毎日のように一~二台のトラックに分乗したソ連兵が略奪にきたのである。
 ソ連兵のトラックが来ると、家人は皆裏へ逃げてしまうが、私だけ家に残ることになる。それは、家を無人にしてしまうと、彼らは家の中を目茶目茶にしてしまうと言われていたからである。
 彼らは家の中へ土足で入り、まず、腰だめにしたマンドリンろいわれる自動小銃を私に向け、それを指さしながら「武器を隠していないか」と脅しにかかる。手真似で武器の無いことを示すと、今度は目ぼしい物を略奪にかかるのである。
 その間、時間にして三〇分くらいと思うが、その恐ろしかったことは想像を絶するものであった。
 また、ある時川へ行こうと思って歩いていると、遠くからソ連兵のトラックの音がしたので、近くの草陰に隠れたが、近くまで来たソ連兵に銃の乱射をされた時は、生きた心地は無かった。しかし、何とか撃たれることもなく無事にやり過したが、恐怖感は日増しに高まっていった。

 噂におびえて
 連日のソ連兵の略奪を前にして、恐怖の毎日であったが、その中でも特に婦女子への暴行が一番の心配であり、これを防ぐために、適齢期の女性を毎日、山の家に隠すことになった。そして、その送り迎えは、青年たちが担当した。
 今日はこちらから、明日はあちらと、毎日コースを変えて、足跡で道が出来ないように心がけ、朝夕送り迎えを続けていた。
 そのうち、変な外国人らしいのが村の近所をうろついている、という噂が広まり、女性たちを送り迎えする我々は、異常な緊張感に襲われた。
 その日も夕方になり、いつものように女性たちを迎えに行き、隠れ家では女性たちに不審な男がいるという噂があるので、帰りはお互いに気を付けることを確認して、不安な気持ちで家路に向かったのであった。
 私は、後詰めとして最後尾を歩いていたが、曲がりくねった細い道を幾らも歩かないうちに、うしろの方でがさがさという音がした。もしや噂の不審な男かも知れないと、あらゆる神経を集中して歩きながら、みんなに少し急ぐように伝えた。その時、突然黒いものが「ワッ」とうしろから飛び出したので、とっさに熊だと思い、「熊」だと叫んでしまった。
 不安な気持ちで急いでいたところへ、突然大きな声で叫んだので、みんなは一斉に走りだした。細い曲がりくねった道を大勢で走ったのだからたまらない。途中からまっすぐ走ったり、畑の中や藪の中を走ったりで大騒ぎになった。
 この曲がりくねった細い道の途中に小さな川があり、その小川に丸太を二、三本組み合わせた丸木橋が架かっていた。朝はこの橋をみんな恐る恐る渡ったのに、この時ばかりは二、三歩で飛び越して行った。また、ある女性は崖から落ちそうになり「助けて!」と、叫んでいたが皆逃げるのに夢中だったような気がする。
 ようやく、途中の一軒の農家にたどり着き、皆の無事を確認し、外から誰も入らないように玄関に戸締まりをし息をひそめていた。
 その時、外から戸を叩き「俺だ、俺だ、開けてくれ」と言う聞き慣れた声がした。早速中へ入れたが、彼の話しによれば、皆を脅かしてやろうと思い、後から声をかけたが、みんながあまり必死ににげるので、自分も怖くなり一緒に逃げた、ということであった。
 噂の変な外人に襲われたのではないことが判り、みんなも無事であったので、安心して帰路に着いたのであった。
 これは毎日が、異常なほどの不安な状態に置かれていた頃の話であるが、それほど我々は追い詰められていたのである。

 おしまいに
 古今東西の歴史を見ても、戦いの中に於ける略奪や婦女子への暴行は、蒙古襲来(文永の役一二七四年、弘安の役一二八一年)の時、元の兵たちによる対馬、壱岐の婦女子へを船べりに釣り下げて、九州の博多湾に上陸したり、また、国内での戦国時代の城取り合戦における、負けた城側の婦女子に対する暴行はどの戦にもつきものであった。
 しかし、この事は戦の中の話しであり、国際的な条約で無条件降伏をしているのに何カ月にも暴行や略奪を繰り返すことは許されないことである。
 そして、このために命を失った人も沢山いるのである。しかも、未だに自由にその霊も慰めることもできないとは、まことに遺憾である。



  薪の切り出し           田中 忠勝

 毎年、冬になると鉢子内川の上流の前野さんの家より二kmくらい上流の地域で、樺太庁林務署の所管になっている針葉樹、広葉樹の自然林の立木から、ガンビ、ハンノキ、トド松などで(主なものは堅木で真樺が多い)対象木を林務官が一本づつ立木調査をして、各戸に応じて必要量を払い下げる。
 それそれの家庭では、冬季間の一月から三月中旬までに伐採、中出し、馬搬をして家の近くに積み上げる。
 それでは、伐採(杣夫、山子)、中出し(ヨチという橇を自分で作る)、馬搬(自分の家の馬か、農家の馬搬専門家に頼む)の模様を書くことにする。
 天気の良い日を選んで、初鋸入れのため、山子の七つ道具(鋸二種類=堅木、軟木用、ヤスリ、クサビ、打ち出し=小さい金槌=、鳶、サッテ=下受け切り用=、薪割用一貫目マサカリ、カンズキ)などの用具を莚で作ったショイコに入れ準備完了となり、翌朝、早くショイコ(四貫目=15kg)を背負い、スキーに乗れる者はスキーで山越えして近道をし、現地へ行く(四kmくらいの地点なので約一時間かかる)。
 年配者はツマゴを履き足の防寒を完全にして、川沿いにある道路を徒歩でショイコを背負って現地に向う。
 朝早くから女たちが用意した弁当(手で握れないから布巾で握った一貫目もあるお握ぎりやおかずに魚、漬物その他)を腰に巻き、山に向う人達のうしろ姿は山伏を思わせる勇壮なものだった。
 朝から晩まで、一生懸命寒中でも汗を流して、まず根倒しをやる。この時直径一メートルもあるガンビの大木が雪の上に倒され豪快に雪煙を上げる様は今日では想像も出来ない勇壮なもので、今でもこの瞬間の写真があれば良かったと思う。
 雪の上の作業だから腰まで雪の中につかり、この倒した木を今度は二尺(約六〇cm)の長さに枝の方まで玉切りをし、幹の太いところはマサカリで三方六寸くらいに割り、その場に積んで一日の作業は終了する。夕闇迫る山道を帰りは疲れも見せず家路に着く。
 一日、一敷(横六尺、高さ五尺)か二敷を造り、約三〇敷~五〇敷の数量が出来たら、今度は山の山腹から沢下の馬搬道まで手製の橇で三分の一または二分の一の一敷くらい積んで緩やかな降り道を、曳くもの、後押しするもの、両者一体となって中間だしをする。距離は場所によるが、三〇〇メートルから五〇〇メートルで行きはヨイヨイ帰りはツライ、これを一日中繰り返すのである。薪の藪出しは呼吸のつくひまのない重労働である。
 こうして藪出しが全部終ると、今度は一里以上もあるこの地から市街のわが家まで馬で運ぶ。家の横に三〇敷以上の薪が長蛇の列になって積み重ねられると冬中の大仕事は完了する。
 こうして、二カ月以上もかかり一年中の燃料(自家用、浜の釜炊き用)を確保するのが冬季間の大仕事であった。
 木の倒し方や、鋸の目立ても覚えて、時に冬山造材に出稼ぎした人もいたことを書いて終わりといたします。



  想 い 出      故  林 かつみ(旧姓寺田)

 大正九年四月小学校に入学する時、泥川の地を踏んだのです。それから八年過ごしたあの泥川は今、忘却の彼方に失われようとしている。
 今でも私の脳裏から離れない齣は、小学校五、六年の記憶です。両親と二股に住んでいた頃です。そこは隣りの雑貨店と私の所と二軒だけでした。学校までの二里の山道、その頃、材木運搬のためのトロッコの線路の枕木を一歩一歩踏みしめながら通学した。
 夏は熊が出るという雑木林を空かんを叩きながら、短い冬の日は白一色の一本道を家路に急ぐ。雑木林を過ぎると大竹さん、加藤すずえさんの家があり、その反対側にも一軒あったが思い出せない。
 特に印象深かったのは、大竹さんの犬橇、今で言う南極探検を思わせるものであった。
 二十年八月私は妊婦の疎開ということで、実家に身を寄せる事になる。村を出て十年振りに見た故郷泥川は、かって過ごした八年間と変わって、木材ブームは過去のものとなり、鰊にさえ見放された淋しい、しかし平和な一村一族というたたずまいの感じであった。
 そうして八月十五日、あの玉音放送の陛下の声も聞かず、大きなお腹で防空壕掘りをしていた。あの頃はあまりラジオも普及されていなかった。その日の夕方戦争の終った事を知り、勝者と敗者との現実に皆泣いた。その後、ソ連の進駐に脅える毎日であった。
 私は大泊に残した家族の安否の事、交通通信が途絶えて不安な日々、その時主人の友人が伝言を持ってきてくれた。主人は北海道に渡り稚内で逢ったとの事を伝えてくれた。その方は除隊して家族の事が心配で密航船で芳内に上陸、徒歩で連絡してくれた。
 私の生涯忘れられない想い出である。
 九月、発動汽船に乗り脱出、ポンポンという音に振り返ってみる故郷、その日には涙さえ出なかった、北海道の地で頑張ることだ。
 しかし、歳月が流れ、あの地に父と兄と弟二人が眠る・・・。行ってみたい、流氷に乗ってでも、という気持ちです。



  私たちの故郷       小田りつ子(旧姓藤田)

 人間不思議なもので、いまだに夢を見るのは生まれた故郷の樺太当時の小学校時代が多いのは私だけでしょうか。小さいとき、父を亡くしていろいろ苦労はありましたが、人それぞれにあの小さい村を思うとき、電気もなくランプをつけての生活などは夢のようです。
 皆はこの様な生活をしているものと思っているので、別に不自由も気にならなかったと思うのです。今思うとあの悲惨な終戦が無かったら、今どうして暮らしているだろうかとふと考えることがあります。東北、北海道のニュースをテレビで見ますが、それ以上寒いところに生活していた事を孫に聞かせているこの頃です。
 年々体に老いを感じるこの頃、北海道での泥川会集会に出席して、懐かしい方にお会いしてはおりますが近くにおられる方々でも、一度もいろいろな事情で出席出来ないでいる方がおられることを思いまして、何かしらでお会いしたいと思ったことが私の思いつきで二、三の方に相談しましたら、早速皆さんが待ちわびていたように集まって下さいました。
 人数は少なかったのですが、膝を交えてのお話に、多勢よりじっくりお話ができその当時の知りたかった村の様子、皆さんの引き揚げてくるときの苦労、また来てからの苦労、今の生活になる迄の道のりを語り合い、涙を流したり腹から笑ったりの一夜を過ごして本当に良かったなあと思っております。
 二度と行けない故郷なので、心の思い出としてこれからも長く語り合って行きましょう。
 いずれ子どもたちや孫たちには引き継いでもらえない会なのです。
 一年でも長く話し合える誇れる人生、故郷でいてほしいと思います。
     ー昭和六十年一月二十日 誕生日にー



  泥川の思い出の記        田中 久義

 ・生年月日 大正十四年一月十四日 引き揚げ年月日 昭和二十三年七月二十三日(住民最終引き揚げ者)
 泥川尋常小学校。懐かしい名である。
 この校庭の道沿いには落葉松が立ち並んでいた。
 ふと望郷の念に思いを馳せる時、大きくなったろうな?どうなった事だろうと思い出す。また、校舎の裏山に登り山菜の蕨を採ったこと。国道とスキー場間の原野に「コケモモ」群生地、幼き友と寝そべって穂先より抜き取ってほうばったものだ。
 柳を竿にして、大川のアメマスや赤腹ウグイの釣り。小川で小学校のころ、友だちと水芭蕉の葉で水を堰き止め小魚を拾ったこと、数多い思い出が昨今のように偲ばれる。
 現在も山菜採り、磯遊びや海釣りなどが大の趣味であり、子供の頃の郷土の仕草が身について、元気に過ごしている、数え六〇歳の年、全道一周ドライブの折、宗谷岬で感じるままの拙い詩です・笑止下さい。

 「故郷を偲ぶ宗谷岬」            作詞 田中 久義
  一、北の空はきれいな 青空だ
     地平線の彼方に 島影浮かぶ
     あれが俺の故郷の 樺太さ
     アアア思い出させる ぬくもりが
     今のように感じくる 宗谷岬

       二、青い島影 とだそれだけが
          瞼とじれば浮かぶ 懐かしい泥川村が
          島の小影の あの辺だろか
          アアア思い出させる 幼い頃を
          姉に連れられ 川辺の遊び
          今のように感じくる 宗谷の岬



  回   想                高橋 保

 国破れて山河有り、という諺がありますが、我らの故郷泥川は戦いに敗れ他国の領土となり、一生見ることができません。
 あの山、この川は今も忘れる事はなくはっきりと覚えている。
 四季折々に変化していく様子、街の佇まいなどは時に触れ思いだす。だいぶ前の事だが、泊尾川の河口に大きな船が盛んに出入りしている夢を見て、夜中に目を覚ました。あの厳しい冬はどうなるのだろうと思ったら、朝まで眠れなかった。
 僕の住んでいる稚内から、天気のよい日は能登呂岬が見え、夜は燈台の灯りも見ることができる海岸に行ったり、公園の丘に登ったりして、昔の思い出にふけった事もあった。
 時代が大きく違うので比べることは出来ないが、無いものだれけの寒村で、冬は陸の孤島となるような所だったが、たいして不安もなく結構楽しく暮らしていた。お祭りや運動会、冬はスキー大会、学芸会などの年中行事には、村総出で楽しみ、辛いことなど忘れて暮らすことができたのである。
 子供の頃は、勉強より一に遊べ、二に遊べで回れ右をしなければ、一番になれなかった事、学校帰りに太田正男君と畠に行き大根や人参を食べたり、柳の小枝に針をつけ魚釣りをして遅くなり、おふくろに叱られることはなれっこだった。
 青年学校に行くようになってから、これではいかんと思うようになり、自分なりにいろいろと努力したことが、後々大いに役にたった。
 終戦の時は、豊原の時は、豊原の憲兵隊本部におり、十月に九死に一生を得て二十三年九月に復員して現在地に住むようになった。
 四十数キロの海峡の彼方に能登呂岬が見える。有名な詩に、故郷は遠くにありて思うもの、とありますが近くても想うばかりで行くことが出来ない。
 我らの故郷、樺太留多加郡能登呂村大字古江字泥川は今如何になっているであろうかと思いながらペンを置く。



  回   想                太田 幸男  

 郷土の皆様方の郷土便りや近況を、そして、第一回目の千葉市においての、泥川出身者の集まりの折の写真をお送り頂き有難く拝見いたし、思い出もまた新たにいたしました。
 子供の頃より青年期まで泥川に居住しておりましたが、当時は当たり前の毎日の生活の繰り返しであったのが、終戦後泥川の地を離れて、各地で生活をして参りましたけれども、やはり目に浮かぶのは、春先になって海一面に張った氷が海岸から離れ、暖かくなって定期船が沖に見え始める頃と、鰊の大漁に浜が活気を帯びたときのことです。また、野や山で山菜採りをやったことや、海がしけると浜に出て貝や海草を拾った思い出など、度々話に出てくることであります。
 私は、昭和十年から十一年まで泥川郵便局に勤務しておりましたが、当時泥川に自動車が通るようになり自動車に憧れて大泊の自動車会社に勤めました。しかし、見習いで収入も少ないことから、ここを辞めて塔路の三菱炭坑に採用され電車の運転業務に従事しておりました。
 昭和十六年に田中秀稔の三女、三代子と結婚しました。昭和十八年に応召、北緯五十度の国境警備に当りましたが、二十年大泊に転進して、陣地構築の毎日でした。八月、ソ連参戦で大泊進出のソ連軍に捕虜となりましたが、ある夜収容先の小学校から脱走しました。
 目標は妻子のいる塔路でした。ソ連兵を避けながらの北上は辛く苦しいものでしたが、ついに塔路に着くことができました。しかし、私の住んでいた社宅は、ソ連空軍の爆撃で跡形もなく、家族も避難していて行方不明、この時ばかりは精根つき果てた思いでした。幸いにも、父親が足が悪いため避難できずにいたので一緒になることができました。
 その後、ソ連民間人も入ってきて治安も落ち着いてきました。待望の待ちに待っていた引き揚げは、昭和二十三年でした。北海道の芦別炭鉱で働きましたが、石油ショックで炭鉱も下火になり、昭和三十七年東京に出て、東京ガス関係の会社に変わりました。この会社も、昭和五十三年に退職し、横浜戸塚に住宅を求め現在に至っております。
 どうか郷土の皆様、今後ともよろしくお願い申し上げましてペンを置きます。
 大正八年九月二十日、北海道空知郡上砂川町にて、父、太田徳太郎、母、クマヨの長男として出生。

  泥川の思い出
 泥川在任中の思い出は、いろいろと思い出されますが、冬は白銀一色となりスキー滑りや、猛吹雪に先方が見えなくなって苦労したことや、またオホーツク海からの流氷で海一面が氷に閉ざされ、寒さが一段と厳しくなると、早く春が待ち遠しく、春先に徐々に海面の氷が海岸から離れ行くのがうれしく感じたことでした。また、鰊漁の最盛期もあって、学校も休校で小学生五、六年生頃ですが鰊場の手伝いに出かけて、もっこ担ぎをしたことや、カズノ子抜きの手伝いに行って鰊の臭いに酔って参ったことがありました。また、春には野原一面山菜の宝庫で、山菜採りをやったこと、また、海が何日も荒れた時は、時化のあとに浜辺に行って、帆立てや、ホッキ貝、海草等の海の幸を拾いに出かけたこと、そして、泥川に国道の建設が始まり、泊尾川へのコンクリート橋工事の様子が、今でも思い出に残っております。
 そして、国道工事が完成して、自動車の第一号が来た時には憧れたものでした。思い出は数多くありませんが六十数年前の事で走馬灯のように頭の中では駆け巡っておりますが、まとまった文章も書けませんのですが、少しでも役に立てばと存じご送付致しますので、よろしくお願い致すます。

  引き揚げについて
 引き揚げについては、昭和二十二年に、父徳太郎、母クマヨ、妹富子、栄子が泥川より移住した塔路より引き揚げて、北海道芦別市に居住しました。私は昭和二十三年三月塔路炭鉱在任中にソ連よりスパイ容疑で逮捕され、未決囚として毎日取り調べされ、いうら釈明しても信じられず、脱走を計画して、五月に脱走して転々として、引き揚げ港の真岡に向う途中、追手というところでソ連の警備兵に捕われまして、旧兵隊の一人とみなされ、真岡に送られて軍人として二十三年九月家族を残し単身引き揚げてきました。
 妻美代子、長男幸一、次男芳雄は二十三年十月塔路炭鉱より引き揚げ命令があり、第二陣で真岡の引き揚げ収容所に待機中、次男芳雄は栄養不良で死亡して、長男幸一と二人で引き揚げてきて、北海道芦別市三菱炭鉱に落ち着いた次第です。    ※この稿は、平成六年一月に書く。



   想  い  出    その一         三浦 省吉

  生きた鯨を拾った?
 昭和二年頃のことと思いますが(現在七十六歳の私が十二~十三歳くらいの時の事です)丁度、潮干狩で学校も休みだったし、アサリでも採るつもりで友人三~四人連れで隣部落の古江との中間あたりの漁場を目指して、海岸を歩いて岬を回った時、突然目の前に大きな真っ黒な生物が浅瀬に乗り上げていました。
 岸から十~十五メートルくらいの所でしたが、一同鯨を見るのが始めてなので、只ものすごく大きく、真っ黒な生物が暴れているので、一時は本当に恐ろしかったです。
 しかし、その怪物は襲ってくる気配はなく潮を吹き上げたりするので、ようやく鯨と判りそれぞれ、石を投げて見たもののこのままではどうしょうもなく、仲間の一人が泥川に知らせに走り、残りの者は監視していたわけです。
 鯨のいたあたりは、水深三十cmくらいで鯨が逃げる恐れはありませんでした。
 やがて、泥川の人達が知らせにより来たのですが、暢気に数人が下見にやって着ました。盛んに暴れているのを、包丁であばらに穴を開けるなどして殺し、少量の肉を持ち帰って味見をしたようです。不味なら捨てるつもりだったと、故人になった私の父が言っていました。
 泥川の数人が帰った後、発見者の私たちだけの時に思いもかけず隣部落の古江の人と思われる人たちが、馬車などを用意して大勢で文字通りドヤドヤと来て私たちを無視して勝手に鯨を切り出し、あっと言う間に片身を持ち去ってしまいました。
 これは、その当時郵便物を泥川~古江間を運搬していた人が通りかかりに見て行き古江の人達に教えたようでした。
 一方、味見に帰った泥川の人達は、とても美味だったので、今度は泥川の人口の半分くらいが手に手に刃物、袋を持って大挙して来ました。そして、思い思いに脂肉、赤肉を切りとって持ち帰ったわけです。
 現場では、流木などを集めて火を焚き赤肉を焼いて食べる人もおり、賑やかでした。鯨の大きさは十メートルくらいだったでしょうか。ヒゲ鯨で小川義一さんの言によれば、「つち鯨」と思うと言っていたのを記憶しています。
 昔は、鯨一頭で七浦賑わうと言ったそうですが、とにかく泥川と古江?の人たちは恩恵にあずかったと思います。
 鯨の第一発見者は古いことではっきりしませんが、川村弦さん、工藤良美さん、私と他一名と思っております。
 発見(拾得)者の私たちには物的には何もありませんでした。

 その二 野鼠の異常発生
 年月日は忘れましたが、戦時中のことと思います。
 私が久しぶりに泥川に帰ったとき、野鼠の乾皮がたくさんありました。聞いてみると、その年の夏から秋にかけて、野鼠が異常発生し、野原も畠も家の付近はもちろん、家の中まで進入し実に困ったそうです。
 しかし、泥皮の人達は鼠を様々な手段で捕殺し、皮を剥いで乾燥させておくと、戦時中の物不足の時ですから、幾らかのお金になったようです。
 私は、その皮を二枚もらい、早速、靴の中敷として使用したのです。毛もついており暖かくて具合いもよかったのですが、数日後、知り合いの家に行くと、そこの飼い猫が私の足の「におい」をしきりにかぎ出すました。そのうちに、うなり声をたてて靴下の上からかみついたので、この時始めて鼠の皮の中敷を思い出したのですが突然の事で、知り合いの方はびっくりしたので、理由を話して大笑いをしました。



   冥土の父母へ伝えたい     (旧姓藤田)柴田 信子

 私は大正三年二月三日樺太の泥川という、私の親が開拓した村で生まれた。幼少の頃から、あの山や川そして海、四季を通じて遊び楽しんだ頃の思い出は、今も脳裏に焼き付いていて離れることが無い。
 人は誰も故郷へ帰ることができるものを、私の故郷は今は外国となっているが、でも行ってみたい。私はやがて七十歳になろうとしているが、時々夢にみるあの小川のせせらぎ、野山の花や、小学校時代の様々な思い出はきりがないほど走馬燈の様に出てきて、時々涙を流すことがある。
 特に学校の運動会やお祭りなどは、村人が総出で昼夜を問わず楽しむ平和な時代であった。春は鰊の群来、半漁半農の村人たちは総出で鰊の沖上げに参加してお祭りのようであった。秋は秋で、泊尾川を登る鮭鱒を捕り、山海の豊富な資源の中で育ち雪や雨にも愛情がこもり懐かしさを感じている。
 私は昭和十六年五月一日、村の郵便局に勤務した。忘れもしない、情報網の少ない片田舎は郵便局が通信を受け持つ唯一の所で、昭和十六年十二月八日の朝、村の人に電話がきて、私はその人の処へ連絡に行き、その人と二人で局へ戻り、その人はすぐ電話をかけるというシステムである。電話を終えたその人は、日本がハワイを攻撃した、アメリカ相手なら始めから負けるに決まっている、と局長と話し、戦争の恐ろしさをいろいろと想像して話していた。私は驚きと恐ろしさで一杯であった。その人の名は忘れたが元老かもしれない。
 その日を境に生活物資は値上がりし、しかも品不足で、日本人なら誰でも経験したであろう銃後の守りに入ったのである。若い屈強な男たちは次から次へと戦争にとられ村は女と子供だけになり、いたるところで女が働くようになった。
 確か、ノモンハン戦の時から戦死された知らせを役場から電報で来たのを局長が配達しなければならない悲しい時代になっていた。一にも二にも戦闘訓練で楽しいはずの青春時代は戦時色の濃い、壁に耳あり、障子に目あり、水も武器だ・欲しがりません勝つまではなどで、暗くて辛い生活を強いられていた。
 やがて、二十年八月十五日、案の定わが国は目茶目茶になり多くの人を犠牲にして敗戦になった。
 今までとはまた一段と大変な変わりようで、通信網交通機関が一切切断され、生活物資は無くなり、時々ソ連兵がトラックでやって来ると身がちぢむ思いであった。
 何処からともなくデマが入り生活を脅かし、特に女性を精神的にどれだけ苦しめたことか。この先どうなることかと目の先は真っ暗であった。指導する責任者もなく人々は不安の末小さな漁船をチャーターして、荒波の中を泥川沖から三十時間もかけて死にものぐるいで稚内にたどり着いたのである。この時は、生きた心地はしなかった。その時、年老いた老夫婦は逃げることに加わらず、誰もいなくなった泥川に一人残り自ら命を絶ったのである。
 あの村は今どうなっているのだろう。ソ連が崩壊し国の指導者も変わり私らにはロシアの内情など知る由もないが日本の国が平和条約を結び、いつでも行けるようになれたらと念じている。
 人生の三分の一を泥川の人と苦楽を共にしてきた、あの懐かしい故郷。もし行ける機会に恵まれれば、第一にわが家を探し当てて、今の状況を冥土の父母に報告して安心して貰いたい気持ちで一杯である。国境や地球は人間が支配しているのだから、民族の違いを乗り越えて、お互いに平和に暮らすため誠意を持って話し合えば必ず判り合う日が来ることを祈っている。一日も早く泥川の地に足を踏み入れることの出来ることを念じつつ終わりとする。



   私の「泥川」時代の回想        松原  廣

 樺太の冬は厳しい。十月頃から翌年三、四月頃、流氷が流れ去るまで、ほとんど半年間は雪と寒さとの闘いである。いわゆる冬篭りの生活である。この地に住んで見なければ、その実感もわかないし、多分想像もおよばないことでしょう。
 「泥川」は亜庭湾の西側のほぼ中程に位置する約一〇〇戸たらずの小さな部落である。ニシン、造材以外の基礎産業など思いつかない。部落の人たちは、どうやって現金収入を得て、生活の基盤にしていたのか、今もって不思議でたまらない。でも、「泥川」での体験は愛郷心と、なんとなく親しみがある。
 私の「泥川」での生活は、大正十三年から昭和四年三月までの小学校在学のたった六カ年だけである。小学校入学当時は、泊尾尋常小学校となっていた。だが、卒業証書は泥川尋常高等小学校となっている。能登呂村の代表の方々が協議して「泥川」という名称なったのでしょう。どうしょうもないことと思います。「あなたの出身地は何処ですか」、「故郷はどちらですか」と尋ねられたとき、一瞬、戸惑い、答えに躊躇する。どうしても「泥川です」と率直に、即座に答えられないのは、私ばかりでないでしょう。多分「泥川」という語感でしょうか。いかにも汚れたイメージを与える村名の恥ずかしいニュアンスでしょうか。でも「泥川「は「泥川」だおと思います。卑屈にならず胸を張って堂々と、毅然たる態度で「泥川です」と答えたいと思っています。
 「泥川」の中心街は、「留多加町」から「能登呂岬」まで続く一本の海岸線沿い道路の両側に並んだ市街地であった。途中、「親知しらず」「子知らず」の難所がいくつかあったように記憶している。交通機関は「大泊」と結ぶ定期連絡船、それも夏場だけ、それ以外は何もない。徒歩か、馬橇ぐらいだった。一番苦労したのは多分郵便配達のおじさん方だったのではなかろうか。道なき道を徒歩で、重い郵便行嚢を背負って、テクテクと一日がかりで隣村の郵便局まで届ける役目である。ご苦労様でした、と頭が下がる思いがします。吹雪の時は何日も欠勤の日が続く。四、五日前の新聞がまとめて配達されるのは、当たり前のことのようだった。一週間も欠配のこともあったようだ。まさに取り残された陸の孤島の感があった。
 海岸線沿いの中心街通り(通称泥川銀座通り)と「山の手部落」との境目は少年、少女たちにとっては、恰好なスキーのゲレンデであった。夕日は、とっくに、西の彼方に沈み、冷たい北風は、容赦なく、カミソリの刃のように両頬にあたる。終日、遊び疲れて、両方の手袋はガチガチに凍り、左右の手首にはストックの皮輪を入れて、ただズルズルと引きずって、トボトボとわが家へと向ったものだった。また、明日があると、無人の境地だったと、懐かしい思い出になっている。
 「テッカエシ」という綿の入った部厚な、北国独特の手袋をご存じでしょう。母にねだったが、母は静岡県浜松の内地出身であったので、その作り方を知らず、型紙も手に入らず、始めての試みの作業のようでした。出来栄えは文句をつけたり無理難題を言って、どんなには困らせ、苦労をかけた事だったろう。
 今になって思えば、気の毒な、可愛そうなことをした、わがままなことを言ったものと、今は、亡き母に手を合わせている。
 まだまだ、「泥川」時代の想い出は尽きない。残念ながら限られた紙面の都合もあって、次の機会に譲りたい。



   終戦の思い出     昭和二十三年六月復員(六十六歳)菅生 四郎

 昭和二十年八月十五日正午、天皇陛下の玉音放送があった。将校以下全員ラジオに耳をかたむけるが、現代のように精巧なものでなく雑音が多く思うようにききとれない。放送のなかで、たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび、いばらのみちなどをかすかにききとることができ、次第に不安がつのるうちに玉音放送が終る。場所は逢坂小学校校庭において、ついに惜しくも大日本帝国軍隊がポツダム宣言を受諾し無条件降伏をもって第二次世界大戦が終わった日、生涯わすれることのできない思い出深い日なのである。あまりにも突然なできごとなので、私たち軍人、上官も兵もみな唖然として無言のままただ泣きじゃくる。このような姿こそ男泣きと言うものなのだろう。いわゆる、日本国民老若男女みんなが涙が涸れてるまで泣き悲しんだ。
 月日の流れは早いもので、戦争が終って四十二年目を迎えました。当時日本国民が日本国土に散布した涙は多少なりとも国土の肥料になったのであろうか。最近では日本政府並びに中曽根内閣は自衛隊の増員、軍備の武器拡張に国民の意思をふみにじり懸命である。中曽根氏も当時は海軍の青年将校であったと聞いている。共に涙を流した同志である。残酷な戦争に目ざめ、涙を流すことのないよう、戦争の無い世界平和の道へと前進してほしいものである。
 次には部隊並びに第五中隊の行動範囲を思い出しながら書いてみよう。当時私は二十四歳の若兵でした。所属部隊は樺太の北の地、上敷香という町にあり歩兵二十五連隊(旧札幌月寒連隊)第五中隊{伊藤忠」で陸軍伍長の任務で服役していました。次第に戦争状況悪化とともに部隊は各地に移動、第五中隊は内渕川に近い「落合という町」落合第一小学校を宿舎とする。作業地は蛇山とよんでいた。右には内渕川、左前方は、「栄浜」の海の見える小高い山で、作業はいうまでもなく陣地構築作業が主体であった。地名のとおり「マムシ」が大量にいました。食料不足のおり血気盛りの若人は栄養剤として利用したのである。
 「戦況」八月九日午前はじめて落合上空にソ連機を発見、戦闘体制につく。八月十日第五中隊は豊真線逢坂に移動、逢坂神社境内地下壕に連隊本部あり、連隊長以下参謀一同作戦準備であわただしい状態である。第五中隊は軍隊の護衛その他本部の警備につく。八月十五日正午、陛下の玉音放送終了後、逢坂神社境内に於いて軍旗を奉焼、紋章は爆破され、第二十五連隊(旧札幌月寒連隊)は終止符をとげたのである。
 八月十六日現役四年兵の下士官に戦後の復興を目的として除隊命令があった。三ケ月分の給料が支払われ帰郷の準備をする。八月十八日以降ソ連軍、真岡に上陸との情報あり帰郷どころか完全武装にはやがわり第五中隊にもどり行動をつづける。同時に樺太住民もソ連の上陸の情報を知り、三十有余年汗水ながして開拓した土地、家、財産を捨て日本本土、北海道を第一目標にして連絡船のある港へと足を急がせる。豊真国道は避難の行列で三昼夜はつづいたであろう。八月二十三日以降ソ連軍は逢坂市街に進駐、逢坂小学校校庭に於て武装解除されたのである。
 その後逢坂、真岡周辺の戦場整理の作業も終わり、捕虜の身となり九月十八日真岡港をあとに強制労働の地シベリヤに進路を向け出航したのである。一週間終戦が早ければ広島、長崎の原爆投下もなく、また私たちもシベリヤに連行されることもなく、人類の被害もなく戦争は終ったのではないかと思う次第です。
 戦争は財産を破壊し人類を殺害する悪魔です。戦争のない世界平和の道へと前進いたしましょう。
                       (昭和六十二年八月)



   想い出の記              森山 直吉

 私の泥川の想い出といえば五歳頃から十一歳までの七年ぐらいのものです。泥川のことを今想うと一番さきに浮かんでくることは、森進一が唄った襟裳岬の歌です。
    北の街ではもう 悲しみを暖炉で
       もやしはじめているらしい
    わけのわからないことで
       悩んでいるうち おいぼれてしまうから
    ひろい集めて暖めあおう
       えりもの春は何もない春です。
 この歌詞の中の、北の街ではもう悲しみを暖炉で もやしはじめているらしい・・・ えりもの春は何もない春です。(北の泥川ではもう、悲しみを暖炉を囲んで・・・泥川の冬は何もない村です)しかし何もない村ではあったが、大変大切なことがありました。それは、今失われつつある人と人の繋がり、それに義理と人情そのうえ暖かい思いやりがあったように思います。
 その良き残りが泥川会の集まりです。戦後別々の土地に移り住み、お互い交流もなく生きるために必死に働いて、ようやく世の中も安定し、引揚者の生活も落ち着いてきた頃、泥川会の開催を呼びかけ集まってきた方々が一番大切なことを(人の繋がり、義理人情、暖かい思いやり)彷彿させ今でもそのことが続いています。
 そのころ子供たちの正月の遊びの中で百人一首があった、毎年それぞれの家に七、八人ぐらい集まりカルタとりをしますが、その家の大人たちの仕事はみかんの入った箱の蓋を取り、ストーブの脇に置いて凍ったみかんを暖めて溶かす。それから甘酒造りであった。我々子供たちはその作業を横目で見ながら組み合わせを決め札を並べる。一枚読んでとるたびに、札の上と床を手でたたきながらはい回ったものです。
 最近のカルタの取り方はそのような迫力のあるものではなく、我が家でも正月には子供と孫たちとカルタ取りをしますが、ハイ取りましたと言い、たまに私が取った後、床を叩くと孫が、おじいちゃんなんで床を叩くのと聞かれ戸惑いを感ずるぐらいです。カルタ取りが終るといよいよお待ちかねのみかんがいただける、まだ半分くらいが凍った状態のみかんを五~六個くらい食べ終わり、つぎは甘酒であの味は今でも忘れられない。それが終わり帰りはいつも十一時から十二時くらいであったように記憶しています。
 その他に想い出の遊びに城取り合戦がありました。亜庭湾の流氷が岸一杯に押し寄せ寒風が肌にしみる厳寒の時期に城造りが始まるのですが、当時はショベルカーもクレーンもない時代に東組、西組ともによくあのような立派な城が出来たものだと改めて感心しております。
 札幌の雪祭りで市民が造る雪像より数倍大きく、自衛隊が造る雪像の三分の一くらいあったように思います。(但し芸術的には格段の差がありますが)また城取り合戦にはいろいろの規約がありまして、これは絶対に守ることになっておりました。
 一、東西の人数は同数であること。(総人員は二~三十人くらいあったように思います。
 一、城取りの期日が決められその期日内に終了すること。
 一、戦いの開始時間、終了時間、および日数を決めること。
 一、戦いの中で降参した者は戦力より除外すること。
 そのほかにもあったように思いますが大体以上のようなものでした。しかし一番大変な作業は城造りで、決められた日数以内に仕上げなければなりません。まず雪を集めその雪を積み上げ、雪に水をかける手順で毎日夕方の五時か六時くらいまでの作業でありました。私達の城は菅生家の裏の広場で、城造りの最中に菅生四郎さんが自分の家の風呂から丸裸で雪の中を走り廻りそのうえ、お風呂場の屋根に登りその屋根からダイビングをしたことが強く印象に残っています。
 城の形はドーナツ型で中心に氷柱を立てる(外壁より一メートルくらい高い)外壁の高さは三メートルくらいで、幅は四~五メートル、積み重ねる雪が高くなるにつれ梯子を使っての作業でした。相手方の城は角型で中は迷路で大きさは大体私たちと同じくらいであったようにおもいます。城造りも終わりいよいよ戦闘開始です。当時私は一~二年生頃で初日に斥候を命ぜられ帰る途中で敵に捕まり、散々雪の中にねじふせられ降参し初日より戦力から除外され両方の戦いを見るだけでしたが、私同様、年少者で初日で降参させられた者が東西で四~五人くらいおりました。最終日は双方の激しい攻め合いで、勝負はどちらが勝ったかは思い出せません。当時は遊び道具など何もない時代でしたが、それでも遊びにはことかかなかったと思いますがこれで想い出の記とさせて頂きます。
 今はこの故郷泥川も遠い異国の地となっておりますが、昨年(平成五年八月二十五日)田中茂さんが大変なご苦労の末ようやく泥川に辿り着き、その泥川は見渡す限り一面の野原で家一軒もなく暖炉に入れる板切れ一枚もないような状況の写真を拝見し、国敗れて山河ありの感、万感胸に迫る想いです。それにつけてもこの地に眠る多くの人々の霊に対し心よりご冥福をお祈りいたします。



   修学旅行            野村 鉄子

 深かった雪山も日毎に低くなり、ようやく春のきざしが見えるようになったこの頃、新聞にサハリンの今冬は豪雪にみまわれ、燃料の石炭輸送が困難、その上天然ガスパイプの凍結で室内温度も十度に押さえた寒い冬と報じられていました。この記事を読みながら古里・泥川は深く積もった雪に覆われ、凍てついた川、流氷の海かと急に泥川の山川が浮かんできました。
 泥川に生まれ育った二十年の思い出は大きくその大半を占めるものは、八年間学んだ小学校の時代のことです。
 寒い冬の登校のつらさ、寒い教室の授業風景、春になって海が明け、野山の草花が一斉に咲き出し嬉しくて終日遊び、カデンジや苺を採った夏から秋、さまざまな思い出のこまが廻ります。
 八年間の中で一度だけの修学旅行の思い出があります。だいぶ薄れかけていますが思い出してみますと、昭和十年夏私が三年生の時でした。当時世界に精鋭を誇っていたました我が国海軍の連合艦隊の半数が樺太を訪問、大泊港を中心に停泊することになりました。なかなか見学することのできない機会なので修学旅行が計画され、桜庭校長先生が中学年の児童も参加させて下さり、村の大人の人たちも何人かは一緒に行きました。太田さんのおばあさん、大平さんおおばあさんが記憶にあります。父も局長会議で出泊し、祖父母が大泊にいた関係で宿泊は皆さんと外れ、見学が終ると迎えに来てくれ、また翌朝皆さんの宿舎まで送ってもらうのです。
 朝、騒音で目が覚め海の方を見ると、いつの間にか大泊港を中心にして点在していた軍艦の雄姿がありました。朝、耳にした音は航空母艦から飛びたった飛行機の音ということでした。
 引率され見学したのは、巡洋艦愛宕(あたご)でした。大きなはしけで軍艦の側面に着きタラップを昇るのですが、まず目についたのは大きく光っている菊の御紋章でした。艦に上がり鉄の黒光りしている大きな砲身、清潔に洗われていた甲板、足許を気にして降りた時、咳払いにびっくり上を見ると、ハンモック(つり床)に水兵さんが寝ていたこと、海水を蒸留した水のおいしくなかったのを覚えています。
 その後国語の教科書に「軍艦生活の一日」というのがありまして一層印象を深めました。
 大泊市街の見学で亜庭神社に行った時、歓迎のお酒に酔った水兵さんが下の公園で寝ているのが子供心にもいやな感じがしたものです。
 大人から中学年の児童まで連れていかれた修学旅行、先生方のご苦労も大きかったと思います。田舎から出ていった人たちいろいろと面白い話しがあったようです。
 断片的に記憶になりましたが、ランプ生活の泥川にいた私は一斉に点灯される街灯がとても不思議でした。誰かが点灯するのだろうかと考えたものでした。アイスクリーム・いりたて豆などの街頭売りなど町の異った面を見て少々うらやましく思った田舎の子供の思い出でした。
 あの子供の日に目にした連合艦隊の雄姿は二度と目にすることなく、平和日本の新しい波の中に消え去って行きました。
 註=連合艦隊の大泊港入港は昭和十年九月六日で、その数は七十余隻でした。



   ふるさと二十年        寺田 武夫

 昨年、郷土会で本州の方々の「泥川追憶手記」を拝見感銘しました。
 私の郷里二十年の想い出を順に綴ってみました。
 大正九年、石川県より両親兄弟とそのころ帆前船で泥川に上陸、父は大正初期から大きな希望を持って毎年渡樺していたようだった。その当時樺太は材木・漁業の景気で華やかな時代だった。
 両親は市街地と二股に官行の指定旅館を経営、後に漁業・劇場などにも手を広げていた。劇場は年に五、六回興業していた。演し物は浪花節・活動写真・芝居など当初は繁栄していたが人口に減少で廃業し漁粕置場になった。
 私は大正十四年四月公立泊尾尋常高等小学校へ入学、姉(かつみ)と一緒に二股から二年程通学、同年兄(友二)は同校高等第一回生となる。
 大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御一週間喪に服する。
 昭和二年二股を引き揚げ以後市街地に居住する。
 そのころ戸数の増加で小学校の生徒も増し、校舎も増築され百三十名で四教室のほか裁縫室もあった。
 昭和三年、姉は卒業後看護婦見習として大泊に出る。
 昭和六年小学校の奉安殿の完成と校旗が新調された。
 昭和七年、兄(友二)入営出兵、満州事変に従軍するが、昭和九年陸軍伍長となって除隊する。
 昭和八年三月、公立泥川尋常高等小学校高等科第八回生として卒業する。
 在学中の思い出の多い年中行事をあげてみると、
【春】 新学期が始まり四月天長節前後に初鰊、部落の懇意の家に配るのが役目だった。五月の八十八夜では鰊の群来、浜は猫の手も借りたい風景となり、学校は当時休校、あの重いモッコを背負い一回ごとに落花糖二、三コ買うのが楽しみでもあり苦労でもあった。
 鰊の一段落で低学年は古江方向へ磯遊び、汐干狩など、高学年は二里程の遠足でした。
【夏】 休憩時間はもっぱらドッジボール、草野球、陣取り、運動会は各校対抗なので毎日精いっぱい練習もした。菅生兄弟、川村兄弟の奮闘のおかげで優勝した時の嬉しさは今でも忘れない。
 八月の盆踊り、何時までもあの太鼓の音が耳に残る。夏休みは山・川・海と楽しく遊んだ。鉢子内のあの岩石の山を登り、イチゴ採りをし、失敗して転げ落ちたこともある。
 水泳は水温の関係で一度も泳いだことがない。
【秋】 お祭り、農村の大平さん附近の神社で相撲、市街地は樺太神社と同じ(八月二十三日)であった。十月頃から農作物の収穫、あの軒下に吊るした大根干しの風情は瞼に浮かぶ。
【冬】 十一月明治節にはスキーで通学、十二月の声を聞くと、越冬準備最終船(十二月二十五日頃)までに寺西さん、佐藤さん両商店の倉庫が満杯になって正月を迎える。
 冬休みはあのアサヒ館の裏と菅生さんところで雪洞作り、旗をとり合い、夜は百人一首、海上は一面の氷山、凧あげの絶好の場所となる。紀元節はスキー大会、節句学芸会、三月十日は兎狩りスキー隊とカンジキ隊で行った。
 卒業後、毎年冬は一年分の薪切りを吹雪以外は毎日朝早くから暗くなるまでやった。目立てをしてくれた鍋田さん、三浦さんにはいつもお世話になった。
 昭和十年ごろから春鰊も不漁でヤン衆も雇い入れず細々と家族漁業となり、帆立・鰯・藤子などの水揚げを繰り返した。
 何年頃か記憶にないが留多加方面からの山火事延焼、家財道具など海岸に埋め船で沖合いに避難したことがあった。
 昭和十年ころから国道の着工で泊尾橋も出来、川向いの渡舟も必要なくなった。
 昭和十二年頃、青年訓練所開所、兄が教官となる。
 そのころ”泥川”という地名を変更(中泊)という話題もあったが実現せず”泥川”が残った。
 昭和十三年、徴兵検査丙種となる。甲種合格者三名、一名はノモンハン事変で戦死した。
 昭和十四年二月、樺太庁警察官に合格、弟「明」凍死する。
 同年三月一日、泥川の地を後に豊原警察官訓練所に入所する。
                    (昭和六十一年五月十日、静内にて。)



   グスベリのこと         鳴海 三男

 提灯の鈴なりのように、夜に行儀よく実がなる植物でグスベリというのがある。
 学問的にはグースベリーと称されるユキノシタ科の野生植物で、北海道にもあるが、今日では庭木程度にしかない。
 当時樺太では野生が僅かにあったが、高さ一メートルくらいの落葉低木で、枝にトゲのある山吹ほどの灌木で、枝の伸び生える状態もよく似ている。
 これに小さい提灯を思わせる形の、緑色の液果が、縦縞目になって径八ミリくらいの実が、細長い枝に鈴なりについていて、緑から黄緑色に成熟し、やがて赤味をさして、可愛らしい液果となった頃、一粒づつザルに採って、実の先端に花のしぼんだ枯穂がついているのを爪先でちぎり取ってから水洗いして、少量の塩でまぶして食べるのだった。赤く完熟しない方が甘酸っぱくて美味で食べ出すと止まらないほどで、可愛らしいグースベリーであった。
 同種で西洋グスベリといって実が大きく、二センチぐらいの粒もあった。
 学校の手前、祖母の元空農家の周囲にグスベリの木が沢山あり、手入れがしてないので蜘蛛の巣と一緒になり鈴なりになっていたのを下校時、必ず寄って洗いもっせず食べたものであった。


   謎                 鳴海 三男

 今、思い出してみると、あのころ確かめておけば良かったと残念に思うことが一つある。
 それは、私の祖母である佐藤せんの土地の中に、不思議な(自然でなかった)円形のまるで原住民の居住跡みたいな土盛りの場所があった。
 そこは学校の校門の一〇〇メートルくらい手前で、道路の左方向約三〇メートルくらいの所で、畠のまん中にこの土盛りがあった。
 直径約二〇メートル、高さ約二メートル、周囲約六〇メートルくらいの土壁みたいなものが、畠のまん中にあるので、これは誰かが何かのために造ったんだと思う。
 もしも掘り返していたら土の中から太古の遺跡があったり、また、中世の古墳だったかもしれない。近世では、アイヌの石器や矢じりがあったり、何か歴史に手がかりのある物が出たかも知れない。そう思うと、今、手の届かない所にあることが残念でならない。
 子供心に不思議に思っていたので、今でもたまに夢に見ることもある。あの土壁の中は、もしかして祖先の宝のかくし場所であり、花咲爺さんのように犬でも連れていってみると、意外にも小判などがザクザクと出てきたりとか・・・・・・・謎のまま月日は流れて行く。



   野いちごと蜘蛛         岩崎 利英

 原野に生命力たくましく生えていたのは、野いちごだった。バラ科で、原野にも道端にも、至るところに生えている灌木で、大きさはグスベリや山吹くらいなもので、枝にはトゲのある木で、季節になると白い花が華やかに咲く木だった。
 そしてやがて丸い八ミリくうらいの実が生り、ピンク色に熟したときは、ちょっと触れただけで実がこぼれ落ちるので、そっと腫れ物にさわるようにつまんで採るようにする。
 実は鮭の筋子の粒を芯の周りに行儀よく並べたお菓子のようで、果物屋で見るいちごとは全く趣の違った、異種野生のバラ科と言ってよい。樺太にだけ育っているいちごであった。
 私たちはこの野いちごを採って食べたが、これが美味しい実で、ところが芯の部分に白い幼虫がついていることがあるので、一つづつ実の内側を見て、虫のついていないものを食べるのだが、虫のつくほどに魅力のある野生の実だった。
 だが、この木には不思議に蜘蛛が巣をつくっていた。蜘蛛の大きさも大人の親指の爪くらいの体で、しかも黄色・黒・緑などの斑らに配色された美しい虫であった。
咬まれても毒を持っていないので安心してつかめたが、野いちごの枝に葉を自分の糸でからめて巣を造り一匹づつ独立して住んでいた。
 学校の帰りに柳の枝を折って、その蜘蛛の巣ごとにバラの枝先を折って何匹もとり、柳の枝にからませて楽しんだこともあった。
 蜘蛛も美しいと、人に愛されるのだが、蜘蛛は昆虫採集の対象にはならなかった。保存がむずかしいからであろうか。



   消防出初式           中野 れい子

 一月五日には消防の出初式が行われていた。、当日泥川の浜市街(通称銀座通り)で、吹雪でない限り消防団の人々が、長い梯子をかつぎ、消火纏をかかげて、威勢のいい掛け声で、長い鳶口や短い鳶口を手に持って行列を組んできた。
 私の家の近くへ来たら梯子を道路上の雪上に固定して立て、長い鳶口で四方から梯子をまっすぐに支えると、団員の一人が地下足袋の股引姿で、軽やかに梯子の上に登り。「エイッーヤッ!」と掛け声に合わせて逆立ちや、大の字を描いたり、様々な曲芸を披露してくれた。
 団員の二、三人がこうした芸を修行していたようだし、長い鳶口で下の方を四方から支えているのが、印象的で。よくあれで梯子が倒れないものだなあと、子供心に思っていたが、要は気合であり、団結なのであろう。
 絵本の中に昔、消防出初式の梯子乗りの絵があったのを記憶していたが、これは江戸名物の火消し人の離れ業を、遠い樺太の街にも伝承されたものだ。このような素晴らしい行事を目のあたりのあたりにした私は幸せどと思うし、との追憶は楽しい。



   フレップ採り           中村 淳一

 樺太の原野には、フレップ(露語、苔桃と日本語訳)と称する高山植物がある。日本アルプスや、北海道の高原地にはは沢山あった。
 地面を這うように一面に生える十二、三センチほどの内地(東北地方)でいう「岩ぼたん」くらいの寒冷地や高山に生える野生植物である。葉は小さな小判形で、つげの葉に似ている。夏になると枝の先端に白い実が幾つかつき、やがて赤黒く実が熟し、粒の大きさは小豆ほどになっていて甘酸っぱい。
 友達同志が誘い合って浜市街から草道をかき分けて、スキー場の原野にフレップ採りに行ったことがあった。小さい籠にいっぱい採るには、相当な手数と時間がいった。原野をはうように採るのだから、よく見ると地面にはスギ苔とか山ジンタン・ハゲッペラ・山グスベリ・野いちごなど数え切れない植物が短い夏の太陽を浴びて大地を彩っていた。
 そんな大地を私は指先で感じ、フレップ採りを通じて、樺太の素肌の香りを存分に感じとっていた。
 これが産土への愛着であり、執念ともなっている。
 採取したフレップは塩水で洗い、砂糖をかけてつぶしながら食べるのだが、たまたなく甘ずっぱい味で、樺太の原野で採れる唯一の草の実であった。
 これを一升瓶に詰めて、棒でつっついて密閉し、暗い所に保存すると、一年たたずにして発酵し、フレップ酒ができる。ワインと同様に古いほどおいしくなる。
 正月用の餅つきの時このフレップ酒を入れて餅にすると、ブドー色の甘酸っぱい香りのする上等の餅として、食べたことも忘れられない。
 樺太特有のフレップは量的にも豊富で、このエキスを利用してフレップ羊かん、フレップジャムなど、土産品としても出るようになった。


   石けり遊び            玉川 ミサエ

 戸外の遊びで、女の子m一緒に遊ぶものに縄跳びがあったが、このほかに「石けり」という遊びがあった。昔のことだから、空地や道路上で遊ぶのが普通で、ドッジボール・野球・西洋陣取り・パッチ(メンコ)、丸とび、縄跳び等などは道路での子供達の遊び場であった。
 当時は人口も少なく、馬車が時折り馬糞を落としたままで通っている時代であったから、道路で遊んではいけないとか、危ないという注意はなかったし、交通事故という言葉さえ聞くこともなかった。
 石けり遊びは道路に棒で線を引いて、この仕切られた枠の中に自分の持石を(たいらな石をみつけて自分の持石とする)決めて、ジャンプで先着順位を決める。
 一番の子から、スタートラインに立って、自分の石をルール通りの枠の中に石を投げ入れる。この時その石が画線にかかったら失格で、順番を次に譲るが、異常がなければスタートラインから片足ケンケンのまま自分の石のある枠に入って、その石を片足で真直ぐにスタートライン外にけり出すわけである。この場合、常に両枠の線から外れて出たら、失格。この要領で決められた区画の順に従って一番上の十番に石を上手に見当つけて投げ入れて、片足ケンケンでスタートラインに真っ直ぐに出して、出し終わったら今度はそのままの片足ケンケンで区画図のまわりを一回まわって勝となる。ケンケンがくたびれて両足を土につけたら失格となる。
 このような遊びをしているうちに陽が西の山に沈み出し、薄暗くなるころ、明日の遊びの約束して家に帰った。



   ガッキ遊び            佐藤 実

 語源は分らないが、子供の頃「ガッキ」と称する四本の竹細工を手に握って、座姿勢から立姿勢の両方の遊び方が順序よく決められていて二、三人の仲間で技を競う遊びがあった。
 これは反射神経の助長をうながすのに役立てつつ変化に富んだ面白い遊びが十種類あって、しかも数え唄まじりで、リズムのある楽しい遊びだった。
 道具は竹作りに限られて、長さ三〇センチくらい、巾十二ミリ、厚さ五ミリくらいで、竹をカミヤスリで全体にトゲのないように、真っ直ぐな竹を四本一組に仕上げることが大切で、オモチャ屋では売っていなかった。
【遊び方】 最初に順番を決めるために、各人が一本づつ持って、同時にそれを床に落とす。
 竹の表(皮の方)が出たら先行、竹の内側を、「実」といった。同じように出たら再度やり直し、こんな決め方でその時からもう興味が湧いて、相手の手さばきを見ることになる。先順位はジャンケンで決めることもある。
 先行者が四本のガッキを片手に握って、まず座姿勢で、四本を垂直に立ててから、静かに手のひらを開き手の甲にクルリと四本の端を床につけたままで、片方を甲の上から一本づつ床に下ろし、四本全部表向き(皮の方)に下ろし終わったら、もう一度四本を手の甲に載せて、今度は実の方に四本共床に下ろし終わると、第一回動作はパスし、次の技に移る。
 もし第一回動作が、皮と実と入り混じって下ろしたら失格となり交替する。もちろん二度目も失敗したら次の順番を待ってやり直しとする。
 第一回目がパス出来たら引き続いて次の動作、パスすれば引き続き継続権が生ずる。
 二番目の種目は、座姿勢のままで。四本を束ねて握り、垂直に四本立てて、握った手を離すと同時に、立っている四本を素早く、逆手につかみ、引き続きその四本を床に立てて、また同じ要領で四本をつかみ、これを数え唄に合わせて十回行う。
 途中でつかみ損ねて一本でもはみ出すと失格となり、順番を次の人に替わる。
 この数え唄はいろいろあったが、私の覚えているのは次の通り、
 ζ一づけ(一漬) 二どいも(二斗薯) 三じょう(三升) 四いたけ(椎茸)
  五んぼ(牛蒡) 六きだし(むきだし) 七(な)がいも(長薯) 八(や)きどうふ(焼豆腐)
  九(こ)んにゃく(こんにゃく) 十(と)うふ(豆腐)
 三番目以降の種目も各種あって、十種類となったが、ここでは説明はしにくいので省略する。実際にガッキを握ってやり出せば体で覚えているので、暇があれば竹を見つけて手造りしてやってみたい。
 この遊びも当然内地から移住した人が教えてくれたものだと思う。この頃はケン玉もあって、店で売っていたので、ガッキと同じようにカバンに入れて学校に持ってゆき、休み時間にはそれぞれグループを作って遊んだものだ。
 ケン玉は全国的なものとして残り、しかも大人がケン玉大会までやって楽しんでいるが、ガッキも手造りという煩わしさがなく、店で買えたら、これも少年たちに伝承されていたかも知れない。
 その頃には、少しあとだがヨーヨーも流行していた。



   餅 つ き             寺田 政一

 餅をつかなければお正月を迎えられない風習が樺太にもあった。泥川の人びとも同じことでした。十二月二十~三十日にかけて一斉にそれぞれの家で餅つきが始まる。昔はどこの家も子供が多かったので、餅も沢山つかなければならなかった。餅米六十キロ入れ一俵~二俵と、今思うと一年分もあるのではないかと思うほど沢山ついたものだった。
 さて、餅つきの様子を書いてみよう。まず、前の日から米研ぎをする。この仕事は女の人の仕事であった。研ぎ方にはいろいろあるが何せ大量の米だから半日ぐらいはかかったと思う。この研ぎ終わった米を沢山の入れ物に分散して、明日の朝までうるかしておく。これで用意は万事OKとなる。と同時に豆餅、フレップ餅、あんこ餅、黒砂糖餅などのために必要なものを用意しなければならない。準備が済んだらこの日は早く寝て、明日朝三時ころからストーブに薪をくべて釜炊きをする。また、同時に二升(米を入れた”せいろう”を三段重ねをして蒸し方に入るが、蒸気をまんべんなく上げるための薪くべが、餅の良し悪しに関係するので大事な仕事である。いよいよ第一”せいろう”が蒸し上がった。つき方始めの声がかかると、蒸し上がった”せいろう”の米を前の日から用意してあった臼に投げ込む。湯気の立ち上がる臼の中の米を、餅つきの杵と合い取りの両者の呼吸を合わせての餅つきが行われる。このつき方にもいろいろあるが、一人つきが二人つきが多かった。息もつかずに五~六分でつき終わった餅をとり粉を敷いた伸し板の上に乗せ、待ってましたとばかりに二、三人でお供え、あんこ餅、伸し餅など熱いうちにいろいろな形の餅を作り上げる。これで一臼の餅が仕上がりとなる。このことを一俵分(二十臼)をつきこなす。この時間が概ね五時間を要する。一家総出や隣近所の共同でやることもある。以上餅つきの概要を解説してみた。子供たちの冬のおやつとして欠かすことのできない貴重なものであった。



   かるた遊び            藤田 ミサ

 正月の行事に欠かせないのが、カルタ取りである。小さい子供はイロハかるた、高学年、青年、大人は百人一首、花札などあった。ランプの下で三人一組が対抗して競争を行う。大勢いるときは何組も向かいあって一度に行う、百人一首の場合は読み手が高い声をはりあげて読み上げる、取り手は満をじして読み手の声に神経を集中させる、一瞬声なし、五〇枚づつに分かれた木の札は双方が取り手前にならんでいる。誰が一番先に取るか熟練者は別として勘の見せ所となる。読み手が下の句を読みだした途端に早い人の手が気合とともに素早く出る。双方入り乱れての早取り合戦、木の札は飛び、立ち上がるなど、けんけんがくかく一瞬の速さで勝ち手が決まり、この戦いを五十枚取りおわるまで続ける。札が少なくなるにしたがって勝敗が近づく、両者緊張のにらみ合い、読み手と、取り手の呼吸が静かさの中に粛々と進む、取りおわっら者は総立ちで応援、最後の一枚がハイライトとなる。しかし双方に力の違いがある時は沢山札を残して勝敗が決まる場合もある。取り終わったあとはガヤガヤ雑談、楽しいひと時、またやるぞと声がかかり延々朝まで続くのである。
 公然と夜遊び出来た思い出の一こまです。
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