稚内公園(標高173.2m) =ヒストリーロード= 氷雪の門 九人の乙女の碑と行幸啓記念碑 教学の碑 |
<2009年8月25日> =このページは北の探歩訪のページの抜粋です= |
アクセス ノシャップ岬の高台にある稚内公園(別名「氷雪の丘公園」)に上がると、宗谷海峡に浮かぶサハリンの島影が見える(一方通行の交差点に注意)。 国土地理地図 周辺地図 |
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氷雪の門 |
公園の北端に氷雪の門が建っている。女人像は、樺太を背に鎖されてしまった狭い門の狭間でもがき苦しんでいるようだった。樺太は愛棒の縁の地なので、氷雪の門の前で記念写真を撮す。門の前に置かれている碑文を読み、像の裏を見ると、同じ内容で台座に彫られていた。この門は樺太慰霊碑でもあるようだ。 |
氷雪の門 | 女人像 | 碑文 | 樺太慰靈碑 |
氷 雪 の 門 人々はこの地から樺太に渡り樺太から こヽに帰った 戦後はその門もかたく鎖された それから十八年望郷の念止みがたく 樺太で亡くなった多くの同胞の靈を慰 めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの 地の丘に木原豊治郎氏 笹井安一氏の 熱意と全国樺太引揚連盟の賛同並びに 全国からの心あたたまる協力によって こヽに記念碑を造る 氷と雪の中できびしく生き抜いた人々 を象徴する女人像、望郷の門、靈石を 三位一体とする 彫刻家 本郷新先生の力作がこヽに出来上った この記念碑を氷雪の門と命名した 昭和三十八年八月十五日 稚内市長 浜森辰雄 |
九人の乙女の碑と行幸啓記念碑 |
碑の真ん中に「 皆さん これが最後です さようなら さようなら 」と彫られ、向かって左に九人の名前と碑文、右には乙女のレリーフを配置した屏風の石碑になっている。九名の名前を拝し、その下の碑文を読もうとしたら、掠れていて読み取るのが大変だった。読んで行くうちに、その碑文と同じ内容の新しく碑文が設置されているのに気が付いた。 昭和45年に昭和天皇皇后が行幸した際に九人の話を聞かれ、その時の心境を詠み、記念碑として氷雪の門の隣に建立されたようだ(御製:天皇、御歌:皇后)。 |
九人の乙女の碑 | 九人の乙女の名前 | 新しい碑文 | 行幸啓記念碑 |
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教学の碑 |
立派な石碑と碑文だが、戦前、戦中の教育のことが、あえて触れられていないような気がしてならない。石碑中央の下に置かれた石は樺太から持っていた石のようだ。 |
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至 誠 一 貫 樺太師範學校 「郭公や 樺太島は 遠い夢 純煌 |
建 立 誌 我が母校、樺太師範學校は昭和十四年 四月、四十五万島民の文化の向上と教育 振興の重責を担う教員養成機関として、 豊原市に開校したが、男女共學という専 門学校教育の実施は我が国最初の画期的 な試みで、上田光(日義)校長(純煌)の卓越 した教育理念によるものであった。 (爾−ハ)来、至誠一貫を本義とする教學綱要 のもと品格の洗練・知性の向上・情操の 醇化・体(身區)の鍛錬に励み、樺太開拓に貢 献する教育者としての資質の琢磨練成に 努め、師弟一如の人間性豊かな校風を築 き樺太師範學校の盛名を高めつつあった が、昭和二十年終戦により、その歴史を 閉じることとなった。 然し、樺太師範學校の教育精神は同窓 生の教育実践に生かされ、戦後、我が国 の復興と平和文化国家建設に大きな役割 を果すと共に、多くの教え子に継承され ている。母校は既にないが教學の精神と 共に我々の胸中に厳然として存続してい る。茲に全国に居住する同窓生九百余名 開校五十周年を記念し、樺太島を望むこ の地に母校永遠に不滅なりの思いをこめ て、郷土樺太の石を台座に嵌め込み教学 の碑を建立する。 平成元年七月八日 樺太師範學校同窓会 |
(※小カッコ内の字は、パソコンでは打込めないので、合成あるいは差し引きしてください) |
最後に、樺太の島影を探し、宗谷岬、稚内市街地を一望して、公園を後にする。 |
野寒布岬方向 樺太の島影 宗谷岬 |
宗谷岬 稚内北防波堤 フェリーターミナル 市街中心 |