2002年7月30日 豊原(ユジノサハリンスク)⇒40km,1hr⇒大泊(コルサコフ)⇒
 100km,6hr⇒稚内⇒393km7h30min⇒札幌11時頃着
 
 最後の水で寝起きのコーヒと思い、お湯を沸かして入れ、愛棒が叔母さんたちの部屋へ持って行くと、びっくりしたことにまだ眠っていたので、叩き起こす。
 ホテルのロビーではノマドの伊藤さんが出国手続きの書類への記入を手伝っていた。私も書いてもらおうと、残金を調べようとしたら、財布がない、慌てて帰って部屋を探すがない、もう一度ポケットを探したらあった。何と言うことは無い、自分で持っていた。
 いよいよホテルをマイクロバスで後にするときが来た。昨日、日本人墓地で一緒だった残留邦人の方々、ホテルの従業員が見送りをする中、出発する。
 すでに見慣れた大泊(コルサコフ)への道を走る。大泊(コルサコフ)の近くで、鳴海さんが親切に、この辺が楠渓町だと言ってくれた。とにかく、写真を何枚か撮る。
 大泊(コルサコフ)へ着くと鳴海さんは樺太マスをみなさんに分けてくれた。このマスは黒パンとともに日本に帰ってからも美味しく頂いた。
 出港間際に、ホテルの従業員が一列になり、手を振ってくれた。人影が小さくなっても振っていた。私は遠くなったのでオレンジの帽子を振ったが見えたかどうか?大泊(コルサコフ)港がだんだん遠のいて行く。
7/30 6:02 7/30 6:40 7/30 8:06 7/30 8:32
ホテルの玄関先で 楠渓町? 港の見送り 港が遠くに
 しばらく、茫然自失状態が続いた。泥川のことが現実なのか樺太の幻なのか実感が無くなっていた。何か凄い疲れが押し寄せてくるようだったが、それも束の間だった。
 出発した時にはどんよりとした曇りだったが段々晴れてきて、2時間もすると軍艦山をバックに親不知の白い大きな崖が迫って来た。泥川は白い親不知の左側になる。親不知の白い崖が軍艦山の北に去ると、いよいよ泥川が真正面に見えるようになる。
7/30 8:32 7/30 8:41 7/30 8:41 7/30 9:54
大泊(コルサコフ)港が遠くに 軍艦山と親不知の白い崖
                     ←大
7/30 9:54
泥川 軍艦山と親不知の白い崖
                     ←大
7/30 10:10
          泥川 軍艦山 親不知の白い崖
7/30 10:46
左:泥川 中:軍艦山 右:親不知
 最後のお別れに、岩崎さんが読経を始めると、居合わせた人たちは泥川の方に手を合わせる。

 振り返れば、アニワ(中知床)岬を越えようとしていた。いよいよ、泥川が遠のきだす。すると、泥川元少女合唱団が泥川の歌を歌う、それはそれは心地良く時を越えて樺太に届いているような歌声だった。
    泥川を愛する人は 心清き人・・・
       ・・・    わが父母・・・♪・・・♪・・
 何時までもその心は忘れずに置いて欲しい。
7/30 10:46 7/30 10:46 7/30 10:59 7/30 10:59
岩崎さんの読経 泥川合唱団
 連絡船の甲板には、遠ざかる泥川を目に焼き付けてでもいるかのように、何時までも名残惜しそうに見ている望郷の人々がいた。私は泥川の位置が良く分からないまま、写真を撮る。
                     ←大
7/30 11:09
泥川が正面に見える
7/30 11:09
泥川をズームアップ
 やがて、西能登呂(クリリオン)岬が見え出し、アナスタシャ(知志谷)辺りの軍事施設なのだろうか三本の赤と黒に見える煙突の様な建物が二段になって見え出すと、泥川は遠に去っていた。どんどん、日本に近づいているのがわかる。
           ←大
7/30 11:39
西能登呂(クリオン)岬を望む 泥川は既に遠くに
 やがて、灯台のある二丈岩が左手に見えてくる。幾度か海難事故の舞台となった海域だ。利尻山も山影を見せる。すると、現実に滑り降りて行く自分を見つける。そろそろ、帰り支度を始めよう。
7/30 11:41 7/30 12:59 7/30 13:12 7/30 13:17
二丈岩 利尻山が見え出す 利尻山がどんどん近づいてくる
 終わりに
 望郷連絡船の旅はひとまず終わりですが、これからも、きっと最後の一人になるまで訪れている泥川の皆さんがいると思います。
 戦争とは、平和とは、国家とは、民族とはを問いかけられた旅でした。ただ、故郷には理屈が要らないことを実感しました。最後に人は心!スパシーバ ザ フショ・・
 参考文献
1 郷土誌 泥川を想う 平成6年7月1日発行 泥川編集委員会 竃ツ鐘社
2 サハリン案内  1995年1月31日発行 北海道サハリン友好交流協会 大輝印刷
泥川を想うへ