サハリンの中に樺太を探しにV
  (時間は全て日本時間です)
 はじめに
 第22回サハリン平和交流の船に泥川会の6名が参加し、1999(H11)年8月19(木)日から8月24(火)日にかけて里帰りした花田姉妹の記録です。
 1999年8月19日 稚内⇒豊原
 16時の埠頭での結団式に先立って、ロシアのフェリー前で記念写真を写していただく。
8/19 15:39
稚内港:フェリー
 17時から出国手続きをして、フェリ−に乗船し始める。甲板に集まって、稚内港の北防波堤をバックに記念写真を写していただく。船内で夕食をする。里帰りへの不安と期待でいっぱいな気持ちを紛らわすためにお酒を飲む。
8/19 15:42 8/19 8/19
フェリー前 北防波堤 船内で夕食(大×)
 
 1999年8月20日 豊原⇒泥川1日目
 次の20日は、船内で朝食をする。大泊(コルサコフ)港に入港は9時、入国手続きは11時の予定だった。樺太全土は最近にない大雨だった。泥川に行っても豊原に帰れるか不安と期待の複雑な気分で出発する。大泊から雨竜まではマイクロバスで移動する。雨竜川には橋が架かっていないので、トラックバンや軍事仕様のトラックで移動する。
8/20 8/20 8/20 8/20
船内で朝食 歓迎垂れ幕 雨竜までの車 雨竜川の辺で
 
8/20
鉢子内川のマス
 無事、泥川に到着する。基点から1km地点の小学校前にあった勝瀬さんの家跡にロシア人の廃屋があり、二日間泊まることにする。学校跡からは摺鉢山が見えていた。泊尾神社への参道はすっかり荒れ果てていた。
8/20
キャンプ地:小学校跡
 総出で部屋の掃除をして、夕食の準備も終える。ようやく、簡易テーブルを囲み、くつろぐ6人と運転手のセミョーノビッチさんをノマドの伊藤さんに写していただく。
8/20 8/20
部屋を掃除 夕食の準備 夕食
 
 1999年8月21日 泥川2日目
 小雨が降る中、いよいよ自宅のあった所を探すために出かける。家の前で記念写真を写し、鳴海さんが先導して出かける。道中は熊が居るので車に乗る。改めて見る半世紀余りを経た郷土泥川は、鳥の姿すら見えず、一面雑草が覆いすっかり廃土と化していた。地図を頼りにそれぞれの家のあった所を訪ね先祖を供養する。1km地点から海岸に下って行く。最初に佐藤家、次に岩崎寺、郵便局の木と見付けて行く。その度に、岩崎さんの読経で先祖の霊を慰める。
8/21 8/21 8/21 8/21
戸別訪問開始 雑草一面(大×) 佐藤家 岩崎寺
 郵便局跡に中村家、十字路に花田家を特定する。途中、スキー場の山をバックに記念写真を写す。スキー場の前にはフレップ畑が広がっているはずだが、行けそうになかった。花田家にはロシア人が造ったコンクリートの塊があった。
8/21 8/21 8/21 8/21
郵便局の木 郵便局・中村家 スキー場の山 花田
 十字路から泊尾橋に向かう。泊尾橋は、残念ながら落ちていたが、橋の基部だけは残っていた。再び、十字路に戻って、基点に下って行くと黄色い花が咲いていた。海岸線に下りると、古江の岬が煙っていた。
8/21 8/21 8/219:04 8/21 9:04
泊尾橋 基点に下りる 黄色い花 古江の岬
 基点の傍の花田番屋跡には沼がまだあり、海岸線からは泊尾川と橋が見えていた。黄色い花の咲く海岸線を基点から北上する。市街地には、海岸沿いと国道沿いに二本の道路があった。そのうちの海岸線の道を辿る。道端にはニシン窯が数個転がっていた。鉄板倉庫跡を過ぎると、右手に前野飯場・島田家を特定する。
8/21 8/21 8/21 9:20 8/21
泊尾橋を 黄色い花 前野・島田
 左手に、寺田商店を特定し、昼食のために引き返す。午後はウソのよ様に晴れる。先祖が私達を見守ってくれたようだ。海岸線や川辺に出て、各自思い思いに楽しむ。泊尾川は河口が南側に蛇行していた。川の奥には泊尾橋と摺鉢山が見えていた。川辺で泊尾川と橋をバックに記念写真を写したり、釣りをしながら故郷に浸る。田中さんはウグイを一匹釣ったが、あまりに小さいので川に戻した(田中さんのお人柄が分かります)。
8/21 8/21 8/21 14:10 8/21 14:10
寺田商店 摺鉢山 泊尾川と橋 釣りを楽しむ
 川で釣りを楽しんだり、海風に吹かれながら海岸線を散策する人と、思い思いに故郷を懐かしむ。時折、海鳥の群れが泣きながら飛び立つほかは、波の音だけが時を刻んでいるようだった。
8/21 14:11 8/21 14:33 8/21 14:33 8/21 14:41
釣りを楽しむ 古江の岬 海鳥の群れ
 菱取の岬と古江の岬を眺めながら海岸線を散策するとハマナスの花が咲いていた。海岸線や泥川市街地の散策を終え、心地よい疲れを感じながら姉妹で流木に座る。花、海、川そして山、この光景が幼い日の思い出をよみがえさせ、私たちを慰めてくれた。集合時間になり集まりだす。
8/21 15:40 8/21 16:23 8/21 8/21
菱取の岬 ハマナス 休憩 集合
 皆さんが揃ったところで集合写真を写すが、姉は田中さんに寄りすぎ、岩崎さんは浦島太郎の様です。帰りに、花田家の跡地に寄りコンクリートの上を奇麗にして、供物を供える。
8/21 8/21
集合写真 花田家
 
 1999年8月22日 泥川⇒豊原
 豊原に戻る途中、泥川から16kmくらい北になる芳内の浜に立ち寄る。この浜は特別な所で、ここからソ連の船に追われながら、北海道に引き上げたところにです。暫し、カラフトマスを手掴みにして遊ぶ。
8/22 8/22 8/22
芳内の浜
 
 1999年8月23日 豊原
 ツーリストホテルに泊まって、次の日に豊原市街を観光する。最初に、豊原駅に行き、近くのデパートを覗く。
8/23 8:16 8/23 8:41 8/23 8:53 8/23 10:12
ホテル前 豊原駅 豊原駅前 デパート
 駅前には公園があり、社会主義国家らしいレーニン像や日本時代のD51も展示されていた。移動の車の中から豊原庁舎を眺める。
8/23 8/23 8/23 8/23 9:23
公園 レーニン像 日本時代のD51 豊原庁舎
 樺太庁豊原医院には、ゲートがあり中には入らせてもらえなかった。塀越しに建物を眺めると、外観は昔のままの様だった。観音像があった所は様変わりしていた。この下に、遺骨が埋まっているのだるか。
8/23 8/23 8/23 8/23
樺太庁豊原医院 観音像跡地
 次に、車で鈴谷岳を目指すと、ジャンプ台やホテル風の建物が見えて来た。鈴谷岳の上で記念写真を写す。
8/23 8/23 12:19 8/23
ジャンプ台 ホテル風 鈴谷岳
 豊原市街に暫し見入る。
8/23
豊原市街
 母の納骨された寺は跡形も無くて残念だった。日本人死没者合同墓碑で供養していただく。
8/23 15:00 8/23
日本人死没者合同墓碑
 夕食と日ソ交流アトラクションが始まる。ロシアの歌や民族衣装の踊りを楽しむ。
8/23 8/23 8/23 17:38
夕食と日ソ交流アトラクション
 
 1999年8月24日 豊原⇒大泊⇒稚内
 ホテル前で記念写真を写し豊原を後にする。無事、大泊から11時に出航する。帰りの船からの夕焼けが奇麗だった。
8/24 8/24
ホテル前 夕焼け
 
 
 1999年8月24日 稚内市
 船内で夕食を食べて、18時に稚内港に到着する。その後、潮荘で日本酒とビールを飲む。久しぶりの和食で安着祝い。
8/24 8/24 8/24
稚内の潮荘で安着祝い
 二人だけの花田姉妹、不安でしたが男性4人に助けられ、終生行くことができないと思っていた郷土に足を運ぶことができました。岩崎守男さん、岩崎昭善さん、田中久義さん、鳴海一郎さん、ノマドの伊藤さん有難うございました。吉田タチエ、石垣ヒサヱ
 樺太訪問後記
 田中さんから便りが届きました。写真と一緒に一筆(感)と言うことで

 俺等の童が待ってた古里
 住居の跡も一末も無く
 地彰を眺めて、シャッターを押せば
 思い出新たに写真が語る
 恋しい、懐かしい、望郷の旅
    99.8.21(久義)

 玉浦謙(豊原・大泊団)さんから、景徳寺についてのお手紙が届きました。以下、抜粋です。

 私が昭和48、49年に訪問した時はレストランとして本堂を改造し、ダンスと、呑み場として使用していましたが、その後、焼けたとの事を聞き平成7年に行った時は見ませんでした。日本時代は外の寺も違った建物でモダン寺と皆が言っていたのです。現在は階段(当時は高かった)が低くなって居り、又、キソは石積みになって居りますので、階段とキソ(寺)は当時にまゝと思います。当時の写真が無いので確認のしようが無いのですが、東京に住んで居る景徳寺の娘さん(終戦時)が豊女一年で、過日電話をし、又、写真も送り、当時の寺のコピーを送って頂く事になって居ります。
又、この度、現地を見て、不思議に思ったのは、昔の景徳寺の境内はそのまゝ残し、建物は一切ありません。又、豊原二校の前に有った西本願寺(48年にあった)附近も、この度、見たところ広場になって居りました。
景徳寺の娘さん(旧姓野村)現田口直子さんの話しによりますと、終戦時に、お骨を全部(無縁も含む)境内に建って居た観音像の地下室に、お骨を納めたとの事です。 その後に、ロスケが、この像を取り除いた訳で、その時に地下室が見つかったのか、見つからず、そのまゝ埋めたのか不明です。
この度、私が見た境内には人は通るものの、物を売っている店は皆舗道で営業し、境内に立ち入ってないのが、なぜかしら私は不思議なのです。