硫黄島(イオウトウ)
 硫黄島戦没者の碑 納骨堂 供養塔群 海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊資料室 兵器の残骸 壕と陣地跡
 鎮魂の丘慰霊碑 擂鉢山 名誉の再会(REUNION OF HONOR) DIVISION CEMETERY 海軍水平砲台跡
 南観音 日本軍戦没者顕彰碑 米海兵隊上陸記念碑 第一・第二御楯特別攻撃隊慰霊碑 兵團司令壕 北観音
 独立混成第17聯隊/第3大隊機関銃中隊(桶本中隊)本部及び矢野小隊壕 硫黄島の景色
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 アクセス
 硫黄島は渡航許可が必要にな海上自衛隊の航空基地なっているので、国や地方自治体等が主催する慰霊巡拝等に参加する必要がある。
 国土地理院の地形図 周辺地図
硫黄島模型
 硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)
 地下豪を彷彿とさせる入り口を潜り、中に入ると母屋の天井に穴が開いている。これは、日の光の射さない地下壕の中で亡くなられた方々のために天窓を造り、日の光を取り込んでいると言う。石碑は、正に遺骨箱の形状で、台座には荒々しい削岩機の跡を残している。台座台座の下には飯盒等の遺品がステンレスの箱に納められていると言う。碑陰には何も刻まれていないように見える。
入り口 母屋に穴が(大×) 石碑 碑陰
 母屋の右壁には「さきの大戦において硫黄島で/戦没した二万余名の将兵をしのび/その霊を慰めるため国民の追悼/の思いをこめて この碑を建立する/昭和46年3月/厚生省」、左の壁には「硫黄島戦没者の碑/竣工昭和四十六年三月二十六日/・・・」と刻まれている。石碑からは入り口や青い海が見えるようになっている。
右壁碑文 左壁碑文 石碑から入り口を 石碑から海を
 納骨堂
お堂 石碑
 天山の納骨堂は、遺骨が本土に帰るまでの一時安置所となっている。
 供養塔群
供養塔 お墓や卒塔婆 石仏
 納骨堂の裏手には、供養塔、お墓、卒塔婆、石仏などが鎮座している。
 第一御盾特攻隊出撃前夜の会議室
 コンクリートの塊のような構造物は、第27航空戦隊戦闘司令部や陸戦隊司令部として使用された建物だとのこと。 「第一御楯特攻隊出撃前夜の会議室」と石柱に刻まれている。
コンクリートの建造物 石柱
 海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊資料室
高射砲? 資料室
 資料室の前には、高射砲の残骸や鉄砲の残骸と石仏が見られる。
 兵器の残骸
 爆弾の残骸、戦車の上部、「BOEING B-29」のプロペラ、高射砲、野戦砲等無造作に錆びたまま置かれている。
爆弾の残骸? B29のプロペラ 兵器の残骸
 壕と陣地跡
 「二〇四設営隊揚陸作業隊壕(北二〇〇米)」「独速一二大隊陣地」「独速一〇九大隊壕」「粟津壕」等の石柱が見られる。
二〇四隊壕の石柱 一二大隊陣地 一〇九大隊壕 粟津壕
 
粟津壕1 2 3 4
 
5 6 7 8
 鎮魂の丘慰霊碑
 夕闇に包まれて、慰霊碑越しに擂鉢山が望む。
由来文と擂鉢山 石碑 慰霊碑と擂鉢山 擂鉢山を
 擂鉢山
 島の最南端に位置する擂鉢山を目指す。
一本道を辿る 標識(大×)
 名誉の再会(REUNION OF HONOR)
石碑(大×)
 英語でREUNION OF HONORと刻まれた石碑がある。1985年2月19日に建立されたが、、その台座に日本語と英訳の銅板が嵌め込まれているが、1985年3月14日と刻まれ、建立月日とずれがある。
   REUNION OF HONOR
ON THE 40TH ANNIVERSARY OF THE
BATTLE OF IWO JIMA, AMERICAN
AND JAPANESE VETERANES MET
AGAIN ON THESE SAME SANDS, THIS
TIME IN PEACE AND FRIENDSHIP,

WE COMMEMORATE OUR COM-
RADES, LIVING AND DEAD, WHO
FOUGHT HERE WITH BRAVERY AND
HONOR, AND WE PRAY TOGETHER
THAT OUR SACRIFICES ON IWO JIMA,
WILL ALWAYS BE REMEMBERED
AND NEVER BE REPEATED,

     FEBRUARY 19, 1985

    3RD,4TH,5TH DIVISION
    ASSOCIATIONS:USMC
          AND
  THE ASSOCIATION OF IWO JIMA
  ”かっての戦地、 昨日の敵は、
今や友好の地となり、今日の友でもある”
硫黄島戦闘50周年式典において、
我等生存者は共にこの地に集い、
現在我々両国が共有する友好の絆を
今一度確認し合うものである。

今日我々が享受する平和を、
確実に保証せんと欲した故の犠牲であり
願わくは硫黄島生存者たる我等が、
それを世界に知らしめる一助にならんことを祈る。
硫黄島生存者一同
1985年3月14日
WHERE WE ONCE MET IN WAR. WE NOW MEET IN PEACE,

IN COMMEMORATION OF THE
50TH ANNIVERSARY OF THE BATTLE OF IWO JIMA,
THE SURVIVORS OF THE BATTLE HAVE JOINED TOGETHER,
ONCE AGAIN TO RE-AFFIRM THE BONDS OF
FRIENDSHIP WHICH OUR TWO COUNTRIES NOW ENJOY,

MAY WE THE SURVIVORS OF IWO JIMA,RESOLVE TO NEVER,
ALLOW THE WORLD TO FORGET THE SACRIFICES MADE TO
ENSURE THE PEACE WE ENJYOY TODAY,

THE SURVIVORS OF IWO JIMA
MARCH 14,1995
 DIVISION CEMETERY
CEMETERY(大×)
 DIVISION CEMETERYと刻まれた石碑がある。
            DIVISION CEMETERY
THES PLADUE MARKS THE SPUT OF THE CEMETERY IN WHICH SAILORS AND MARINE
OF THE MURD FOURTH AND FIFTH MARINE DIVISIONS WHO WERE KILLED IN ACTION
DURING THE BATTLE FUR IWO JIMA WERE UNCL BURIFD 11 WAS PLACED IN THEIR
MEMORY UN THE FOKTIETH ANNIVERSARY OF THE BATTLE OF ●● JINA FEBRUARY IS
1805 TU REPLACE A MISSING MARKER ORIGINALLY ERECTED BY THE FOURTH MARINE
DIVISION ASSOCIATION.
IN MEMORIAL
OO ●●EMORATINO ●●E BATTLE OF IWO JIMA
VOLCANO ISLANDS
●● FEBRLARY 16 MARCH 1945
●●AVILY FORTIFIED AND FTEACELY
DEFEND BY IMPERIAL JAPANESE FOURCES.
●●DICATED TO THE BRAVE MEN OF THE FOURTH
MARINE DIVISION AND SUPPORTIG UNITS
WHO FOUGHT AND DIED DURING THE
ASSAULT AND CAPTURE OF THIS ISLAND
THEIR SUPAE ●E SACRIFCE IS NOT FOR OOTTEN
D ●● ●● ●● ●●
●● ●● ●● ●●WWW
 海軍水平砲台跡(一番砲)
大砲1(大×) 2 3
 軍艦の大砲を地上に置いたようだ。
 南観音
南観音
 島の南側に安置された平和観音
 火山観測地点
 火山観測地点の棒杭が
 日本軍戦没者顕彰碑
 自然石に慰霊と大きく刻まれた石碑は内閣総理大臣小泉純一郎平成十七年六月十九日の文字が刻まれている。中央の石碑は日本の形が表されている。その傍に、表白と碑文が建立されている。表白を読んで、何が書かれているのか理解不能な所があった。調べて見ると、日本兵の頭蓋骨をアメリカ兵が持ち出していたことが分かり、にわかに信じられないことだったので、唖然とする。その数は1000を下らないというから、更に驚く。一日も早く、日本に返して頂きたいと切に願っています。
石碑 表白 碑文
       表    白
 本年六月大雨の為、硫黄島戦没者顕彰碑々下の
土砂流失し、その存立危殆に瀕したが、米軍記念
碑は無事であった。
 茲に於て顕彰碑の復旧に関し日米協会より委託
を受けたるを以て、鹿島建設とも協議し、伊東石
材店協会道標班八名を従え十月十七日来島、 現状
視察の上米軍記念碑はその儘とし、顕彰碑のみ擂
鉢山頂の中央部に分離遷座する方針を定め十日間
にて之を歓声 本日茲に落系慶の運びとなった。
 本碑建立以来十五年間は無事であったが本年に
至り前述の如き事態に立ち至りたるは戦後本島よ
り多くの戦没日本兵の頭蓋骨が米国内に持ち去ら
れたが、その回収意の如くならず憂うべき前兆と
も考えられるので速やかに之を修復すると共に、
今回は北観音境内に鎮魂碑を建立し、更に又天山
霊安室に観音像を安置して持ち去られた頭蓋骨が
速やかに数多く回収されることを祈念し冀う次第
である。
 茲に聊か蕪辞を述べて落慶の言葉といたします。

   昭和六十一年十月二十九日 於擂鉢山頂
     硫黄島協会々長
     天台宗空也派 沙門 寿松庵恒阿弥 敬白
               副会長   森本一善謹書
 昭和二十年二月十九日、船艇五百・航空機
千余の掩護の下、米軍は遂に硫黄島に上陸
栗林忠道将軍・市丸利之助総督●下の精鋭は
縦横無数の地下壕に拠って、地熱と渇水を忍
び、孤軍奮闘、圧倒的な侵攻軍の猛撃にも屈
せず、これに大打撃を与え、勇戦月余、矢弾
尽き「皇国の必勝と安泰を祈念」する快別
の打電を最後に玉砕した。
  昭和四十三年六月二十六日、小笠原諸島の
祖国復帰を機として、有志相計り護国の礎石
となった二万余柱の忠霊の悲願に応え、限り
なき敬仰の至誠を以て、萬世の太平を祈る霊
標とするために、この山頂に存置された米国
海兵隊の記念碑と並べて、本顕彰碑の建立を
発願し、大方の浄財と外務省・防衛省の協
賛により、茲に所志を達成することを得た。
 碑面の地図は挙国一体の熱誠をこめて、各
都道府県から寄せられた献石による。
        
 銘
   歩寡兵当大敵
   孤島鬼神惶
   千歳恩讐滅
   丹心萬古香

 昭和四十四年六月二十六日
   硫黄島戦没者顕彰碑建立期成会
              硫黄島協会森本一善書
 米海兵隊上陸記念碑
ICタグ 石碑
 摺鉢山山頂に鎮座し、入口には戦死者のICタグが飾られている。
 碑の真ん中には、星条旗を建てる兵士のレリーフ、左右には碑文が刻まれている。
"AMONG THE AMERICANS WHO SER
VED ON iWO JIMA,UNCOMMON VALOR
WAS A COMMON VIRTUE "NLMITZ
DEDICATED TO THOSE WHO FOUGHT
HERE BY THE ISLAND COMMAND AGF.
ERCTED BY THE 31st USNCB.
23 FEBRUARY 1945
OLD GLORY WAS RAISED ON
THIS SITE BY MEMBERS
OF THE 2nd Bn.28th Regt
FIFTH MARINE DIVISION
 第一・第二御楯特別攻撃隊慰霊碑
 
石碑
 慰霊碑は中央に碑文、右に第一御楯特別攻撃隊、左に第二御楯特別攻撃隊の石柱が配されている。 
 昭和十九年六月米軍はサイパン島占領後十
月には同島にB29を展開して、日本々土の爆
撃を企図した。
 これに対し我軍は十一月初めより年末近く
に陸海軍の大型機が本島より発進して 十一
回に亘り延べ七十三機が夜間爆撃を繰り返し
たが 米軍側の対応措置強化に伴い我が方の
損害急増し遂に三十四機が未帰還となり こ
れに伴う搭乗員の損耗も甚大となった。
 唯この間十一月二十七日朝本島を発進して
彩雲二機に誘導された零戦十二機がサイパン
飛行場のB29に対し白昼銃撃を敢行し、米軍
の心胆を寒からしめたが これ即ち第一御楯
特別攻撃隊である。
 斯る戦勢に鑑み米軍は速やかに硫黄島を奪
取する必要に迫られ、昭和二十年二月大挙攻
略軍を編成して侵攻し来たのである これに
対し我が方は第二御楯特別攻撃隊が大戦果を
挙げる一方、島上に於ては月余に亘り約七萬
の彼我攻防軍が過酷な戦闘を續けたが、当時
大本営宛報告電の一節に「本戦闘の特色は、敵
は地上に在りて、友軍は地下に在り」とあり、
良く戦闘の様相を表わしている。
 今この山頂に立ち四個の碑石を眺め更に俯
瞰して道標を辿り当時の戦況を偲ぶ時、その
由来を判然と識ると共に、雲涛千里海陽沈む
情景に思いを馳せ滂沱合掌する次第である。
 
 兵團司令壕
石柱
 兵團司令壕の石柱があり、壕の入り口がある。
 
 北観音
観音(大×) 苔むした観音
 北観音の石柱があり、観音とマリア観音が鎮座している。その奥にも鎮魂碑が建立されている。苔むした観音もあり、錆び付いたツルハシ、無線器の外側と思われる遺品が置かれている。
 
 独立混成第17聯隊/第3大隊機関銃中隊(桶本中隊)本部及び矢野小隊壕
 豪の中に入ると、故人の位牌も安置されている。
1 2 3 4(大×)
 
5 6 7
 硫黄島の景色
 戦争があったとは思えない、南国の風景を見て、平和の尊さを思い知る。
 
 
 
南海岸
 
 
 
 =硫黄島=
 この島には、一般の国民は立ち入れないので、仕事で行った息子の写真を基に、整理して見ました。