第三篇 泥川の概況
 第八章  懐かしき泥川を訪ねて                      

  泥川は茫々一面の雑草地になっていた   田中 茂

 
この旅行の時点では、泥川行きが可能かどうかは不明であったが、企画の日本ユーラシア協会北海道連合会主催の日ソツーリストビューローには、何かと便宜を図ってもらいたいと要望しておいた。
 七月三日の説明会で、国境警備隊のOKが出たことを知らされた。ただし、泥川まで行けるかどうかは豊原(ユジノサハリンスク)でなければはっきりしないという。
 七月二十三日、ツーリストの努力で泥川訪問が実現する。雨龍から南は国境警備隊の管轄であるという。道路は多分、雨龍までであろうとも言う。従って車はジープ型四輪駆動車である。前夜キムさんと連絡とれず通訳なしとなった。車のチャーター料は運転手、ガイド付きで一日十二米ドルだという。九時十五分ホテル発、運転手ガイド共にロシア人言葉は通じないが身ぶり手ぶりでなんとかなるだろう。ガイドは「田中サン」と名前だけは日本語で語りかける。
 並川、中沢、西留多加を経て(アニワ)を左に見て一路南下する。多蘭内(タラナイ)通過十時過ぎ、ここまでは舗装路。雨龍川に着くが橋がない。雨龍(キリルレボ)の街並みも見えない。河原に出て下流に向い浅瀬を探して車で一気に突き進んだ。(川幅十四~五メートル)(写真1)多蘭内から雨龍までの所要時間は概ね二〇分。

 左折して海岸に出て右折、海岸線に沿って南下すると三〇〇メートル程でゲートらしきものが見えた(写真2)ずいぶんと簡単なお粗末なものである。ガイドが下車して丘の上の家屋に向かう。ゲート付近の海岸線から沖に向って浮子(ウキ・アパ?)が続いている。五から六〇〇メートル先にはボンデンらしきものが見える。刺網だろうか、しかし刺網は普通には浜なりに入れるのではなかろうか。魚は何だろうか、(この疑問は帰りのとき解けた)ガイドが一人の男とやってくる。これが警備員?か、兵士の服装ではない。民間のそのものである。どういう仕組みになっているのか、聞きたいと思ったが言葉の壁で諦めた。
 警備員がゲートを開ける、いや上げたのだ。十時五〇分ころゲート通過、海岸線の砂浜をジープは快走する。程なく親不知の難所にかかる。ガツガツと岩が飛び出ている。運転手は、巧みに右に左にハンドルを切り障害物を避けるがそれでもガツン、ドシンの連続である。この難所を過ぎ菱取川?に至る。(写真3)河口の幅三メートルぐらい、だが段差が三〇センチ以上もある。これまでも十~二〇センチの段差は問題なく乗り越えてきたが、さて今度はどうかと思っていたら、さすが四輪駆動このハードルをなんなく乗り切った。普通の乗用車では無理なことである。(不知火までは車の轍が残されていた。)
 しかしホッとしたのも束の間で、また行く手を阻まれる。海藻が浜一面に打ち上げられ、ほぼ五〇メートルにわたって堆積しているのである。車は前進、後退を繰り返して前に進もうとするが却ってズブズブとめり込んでいく。付近から流木や板切れを探してきて車輪の下に差し込む。これを何回か繰り返し堆積物の隙間を縫うようにしてどうやら脱出できたが、一〇〇メートルも進まぬうちにまたも同様の堆積物に遭遇した。
 私は、これ以上無理だと判断しガイドにうr覚えのロシア語で「ニエート ウリキノスコイ(泥川)」「ダモイ ユジノ」と身ぶり手ぶりを交えて伝えた。「ニエート」は、いいえとか違うという用法であろうが「否定」の意味をとらえて「泥川(へ行くのは)駄目(だ)」と意思表示をしたわけである。だが、彼は「田中サン、ウリキノスコイ・・・・・」大丈夫、任せておけという素振りである。ヨーシここまで来たからには行ける所まで行ってやる。なんとしてでも泥川を一目だけでも見てやろう、と開き直りの気持ちになった。行動再開私も手伝う、気温は十五、六度か最適の汗をかく。この三箇所の通過時間は四〇分以上もかかったであろう。

 車は砂浜を軽快に走る。海岸は、やや左に緩やかにカーブしている。(写真4)そろそろ鉢子内カナと思う。運転手がハンドルを少し右に切った。「泥川だ!!」海岸線はほぼ一直線に延び、その先の川向かいの古江に続く山の崖が目に飛び込んできた。「来た、とうとう来た。」私は、もう溢れ出る涙を押さえることができなかった。思えば昭和十九年九月軍隊に入るためこの地を離れて四十九年、半世紀の年月が流れようとしている。様々な想いが走馬灯のように頭に浮かんでは消える。鉢子内川を渡る。ガイドが「田中サン、ウルキノスコイ」と言う。私はウロ覚えのロシア語で「ダー パリショエ、スパシーバ」と答えた。
 岩野宅の前にあたりと思われる所で車を停めて丘にのぼる。到着十二時。ロシア風の住宅が一戸あったが無人だあった。市街地を見渡す。(写真5)何もない。目に入るのは茫々一面の雑草のみである。その余りにもの変わりように一瞬目を疑った。ここに立てば、菅生宅や佐藤宅、旭館、その先の宮腰宅、高橋宅など見える筈である。また、浜通りの建物の屋根筋も見えなければならない。だが、これが現実なのだ。私はさらに山側に進んだ。国道はあった。鉢子内方向と古江方向に確かに延びている。トラックの跡と思える轍も判然としていた。コンクリート橋に向う。国道の雑草は十センチにも満たないが、轍の雑草はさらに短く飛び飛びに生えていた。
 橋はあった。(写真6)右の欄柱?には「泊尾橋」と左のそれには「昭和八年十一月竣工」と彫られているのが、はっきりと読み取られる。だが左の欄柱に下は土台を残して大きく刳られていたし、欄柱から第一の橋脚に至る部分は、垂れ下がっていた。あと何年の寿命だろうか、泥川のシンボルが消える日がくるのもそう遠い将来ではないという気がする。

 車に乗り学校方向に向う。この十字路は、はっきりとした形で残っている。しかし、学校に至る道筋にも往年を物語るものは何もない。残念ながら軍隊に入隊以前の二年だけの私の記憶では、どの辺がお寺でどこが郵便局であったか皆目見当がつかない。(写真7)学校のあたりかと思われる所に住居が一戸あった。二人の男性が現れた。父子か、子どもかと思われるのは二十歳代の青年である。釣り帰りのようだが(アメマスかアカハラか)生業は何なのか。途中には牧草地らしきところもあったが、牛も牛舎も見当らない。或いはこの奥に旧コルホーズの人々がいるのだろうか。
 結局、学校あとと確認できぬままに引き返す。国道(十字路)を渡り緩やかな下りになって左カーブして停まる。道路はない。浜である。海岸であった。昔の浜通りが浜そのものになっているのだ。
 我が家の跡から藤田旅館方向を見てやれば、当時の家並の軒下あたりまでが砂利の浜であり、それから波打ち際へ砂浜となる。砂浜二メートル、砂利浜三メートルくらいか(或いはその逆か?)従って渚から丘の下まで十三~四メートル、住宅あととの距離は八メートル程度か。
 我が家の痕跡は何もない。隣にあった鉄板倉庫の残骸だろうか、三~四〇センチ角のブリキ板が二~三〇枚丘の下に残っていた。
 そこから五~六メートル離れて鰊釜を見つけた。一つは完全に破壊されていたが、釜の鍔?の一片に<ト製四六との銘があった。もう一個はヒビ割れして欠落部分もあったが、ほぼ全体の形が残っていた。三個目は底を上にしてひっくり返って亀裂が数箇所走っていた。さらに離れて(寺西さんあたりだろうか)コンクリートの土台らしきものが二メートルほど残っていた。さらに数メートル離れて奥の方にコンクリート製長方形の桝状のものが土中にあったさらに進む。四十九年前、歓呼の声で送られた旭館への小さな坂はどこなのか探せど見えず。
 私は、ある種の虚脱感を味わっていた。本紙(TONKANSENだより)第一号で森谷(福島)よし子さんの情報を紹介し、第六号では大平重晴さんからの情報をお伝えした。大平情報によればこの時、浜通りで残った建物は田中(藤蔵)鉄板倉庫、寺中商店、寺田豆腐店、藤田旅館だったとあったが今はなにもない。アメリカ西部劇に出てくるゴーストタウンどころではない。
 時計を見ると二時間近く経っている。無常感、寂寥感を覚えつつ、これも戦争の生んだ悲劇だろうかと思った。それにつけてもこの地に眠る幾多の同朋、先人の霊を慰める方法、機会はないものだろうか。私は海に向って合掌し、般若心経を唱えて御霊よ安らかなれとお祈りし、今日の訪問の証しに小石を数個拾って車の人となって泥川をあとにしたのである。
 海は平穏そのものであった。さざ波がサラサラと渚を洗い、平和の尊さを囁いているようであった。

 ●あと書き
 平成五年七月十九日から二十四日までの日程で樺太に行ってきました。帰ってからもうひと月になります。何人かの方々から電話もありましたが。拙い文章でもなるべく早くと思いつつ時間がかかってしまい、ようやくこのような形でまとめましたが、皆さんの期待する、或いは参考となる内容にはならなかったと思っております。(やはり気持の高ぶりがあって注意力が散漫になっていたのでしょう。)それとフイルムが足りなくなり肝心の所を撮ることができなかったのが残念でありました。
 ここで今回の旅行の概略についてお報せします。

 七月十九日 千歳発アエロフロート機 豊原泊り(ツアー六班一二〇名)
    二〇日 豊原発チャーターバス 十五名 東海岸の落合、栄浜経由、真縫から山越えして西海岸の久春内に出て南下、名寄を経て泊居(泊り)
   二十一日 追手(ノボセロボ) 同上泊り
   二十二日 泊居発 追手、野田、真岡、逢坂、清水経由で豊原(泊り)
   二十三日 泥川
   二十四日 豊原発アエロフロート機 千歳着
 千歳発着六日間コース二六五、〇〇〇園 千葉、羽田、千歳往復六〇、〇〇〇(一泊)園 泥川行きチャーター料一四四ドル(一ドル=一一〇円=一、一〇〇ルーブル換算)ちなみに缶ビール(三〇〇cc)九八〇ルーブル ブランデー(コニャック)八ドル(六〇〇cc)でした。一般的なサラリーマンの月収は三五、〇〇〇~四〇、〇〇〇ルーブルだそうです。ひと月前は二〇、〇〇〇ルーブル程度だったそうです。
 今回の旅の印象としては、樺太の社会基盤はまだ遅れているということです。これも旧ソ連時代の後遺症なのか、それと樺太は、我々にとっては近くて遠い国だということです。今、千歳豊原間は紋別を経て五〇分そこそこ、これを稚内経由にすると十分近くは早まるといいます。「ふる里は遠くにありて想うもの」なのでしょうか。
 なお、この空のツアーは来年も実施するそうです。十人以上まとまれば豊原、大泊方面の観光と併せて泥川訪問を企画してくれる可能性もあると考えます。ユーラシア協会には打診しておきましたが、希望があるとすれば遅くとも年内に企画、主催者に連絡することが必要ではないでしょうか。
 終わりに、皆さんの御健康をお祈りしまして、この「たより」をお届けします。

① 雨竜川を渡る

② 雨竜浜のゲート

③ 菱取川の河口

④ 鉢子内岬から泥川をのぞむ

⑤ 国道北側から泥川市街をのぞむ(岩野宅の裏側と思う)

⑥ 泊尾橋の跡(古江方面をのぞむ)

⑦ 泥川小学校附近