間宮林蔵渡樺出航の地  =宗谷ヒストリーロード=
 <2009年8月26日> =このページは北の探歩訪のページの抜粋です=

 アクセス
 稚内から国道238号線を宗谷岬に向かって走り、清浜を過ぎると海岸を背にした石碑がある。
 国土地理院地図 周辺地図
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 小さな駐車場に入って行くと、「間宮林蔵渡樺出航の地」の看板と石碑がある。石碑の横を見ると「文化五年樺太探検の功績を讃え之を建てるものなり」と彫られていた。その石碑の横に、控えめな石碑があり読んで見ると、宗谷アイヌの人たちの石碑だった。碑文を読んで行くと、昔は、ここから樺太に行き来していたようだった。実はこの石碑こそ間宮林蔵が持って来た墓石ではないかと思う。
 その隣りには間宮林蔵の石碑よりも大きな歌碑が鎮座していた。七言詩の漢詩と短歌の歌碑だった。この方も、樺太縁の人に違いないと思う。一番大きな宗教色のある碑は見るだけだった。
 宗谷岬に向かう途中に、沖の弁天島と昆布干しがなんとものどかに感じられた。実は、弁天島は宗谷岬よりも更に北に位置し、日本が実効支配している最北端の地なのだ。
説明板 渡樺の地碑 噫宗谷海峡 弁天島と昆布干し
間宮林蔵渡樺出航の地
 ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と
松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。
 流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、
風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。
 この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し
北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に
赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方
の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。
 後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。
                                   稚内教育委員会
 沖には、樺太の島影が浮かぶ。西能登呂岬に違いないが、白主山、稲穂山、知志谷辺りが見えているのだろうか。山の上に白く見えるのはロシアの軍事施設だろうか?本当に近くて遠い国ロシアを実感する。友好国なら船で溢れているはずなのだが・・・
サハリン(樺太)のクリリオン岬(西能登呂岬)
此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建て部落のすべてが
毎年の祭を行えリ砦
は当時をしのぶ唯一のもの也
  宗谷アイヌ 柏木ベン
 歌 碑
噫宗谷海峡
  東海林義夫
暮色蒼然 俺樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡

 還らざる
 友の面影
  偲びつヽ
 宗谷岬に
  一人佇む