第三篇 泥川の概況
 第一章 泥川の沿革                      
 一 泥川の位置(樺太地図参照)
  北緯五〇度以南樺太島東部にある、能登呂半島中亜庭湾に面したほぼ中央部に位置して、北緯四六度一六分、東経一四二度一二分のところにあり、東方は西湾内海岸線に面し、西方は樺太山脈の稜線とし、北は菱取、南は古江集落地と境を持ち、総面積約一一〇平方kmで海抜は一〇メートルから一〇〇メートルである。
 中央部には、泊尾川、鉢子内川の二本の流域が平坦地を形成し、集落地帯となっている。

 二 泥川の地勢(昭和一〇年の記録)
  ・面 積  一一〇平方km
  ・人 口  四四〇人
  ・所帯数  一一七戸(市街地七八戸、農村三九戸)
  ・位 置  北緯四六度一六分 東経一四二度一二分
  ・概 要  亜庭湾に注ぐ泊尾川と鉢子内川の両域に広がる平坦地で海岸に沿って、漁業を営むものを中心に集落を形成し、約八〇戸の人達が居住していた。
 また、泊尾川の流域の奥地には、各所に支流があり、その分岐点等平坦地の多い地域を中心に農業を営むものが入植して開墾に当り、肥沃な未開の地を切り拓いた人々が約三九戸点在する。
 泥川は、前載の図面のように能登呂村役場所在地の雨龍より、約六里(二四km)南にあり、能登呂半島のほぼ中心に位置し、東西約一二km、南北一二kmと、両翼に広がりを見せ、東は亜庭湾、西は樺太山脈の中央部稜線、臥牛山(軍艦山)を背景にして、北は菱取との境より南に延びて、古江までとの境までとする。その間平坦地は、鉢子内川、泊尾川の流域であり、その他は山間部として広大な面積を有していた。

 三 泥川移住の状況
 西暦一八〇〇年代、旧土人か、または縄文時代のものか竪穴式住居の形跡があるが(泊尾川河岸に竪穴式住居跡=別紙名所旧跡の項参照)資料が無いので立証出来ない。
 明治三八年(一九〇五年)頃、白川魚場(後の小田桐番屋)や、青森県小泊村出身の漁家藤田清八(藤田金次郎の養父)が、鉢子内浜に季節魚場を開設する。その後、養子の藤田金次郎も加わり牧場(鉢子内)を経営する等、多角経営に乗り出すと共に通年永住となる。
 その頃、(明治四三年)小泊り生まれの太田定衛も藤田魚場に就職する傍ら泥川方面をうかがう。
 大正四年、泊尾浜(当時名泊尾後期参照)に太田定衛は家を建築する。この時が、初めて泥川開拓の鍬が降ろされたときである。

 四 泥川の地名の由来
  最初は泊尾と命名するも、その後大正一〇年法律第四七号によって「樺太の町村事務」が定められ、翌一一年四月勅令をもって「樺太町村制」が公布され正式に泊尾が泥川と命名される。
  泥川 はドロカハ。原名トマリオンナイである。「トマリ」は「港」「オンナイ」は「内部」の意、即ち河口は五、六メートルの砂丘が発達し、その内側が港になっているからこのように呼ばれたもの。林氏紀行に「泊穏内」の字を当てている。明治四五年地名改正図には「泊尾(ドロカハ)」と記されてある。泥川と訳されているところをみると正しくはトナリオンナイで、その転訛と思う。「トマン」は即ち「泥」域は「濁り」である。
 --泊穏内即ちトマリオンナイ。ウリウの南方七里、其処はモンゼナイペントロ川、ドロ川の魚場あり、ドロ川以南自主に至る間いたる所に開墾地あり。-
 
  鉢子内 はハチコナイ。「小さい川」に意。露名をマキシムキナレーチカと呼んだ。
 漁業者と商業者は六〇戸ほど。約三〇〇名と農家三〇戸一二〇名の集落である。村名の由来を記憶を辿ってみよう。元来泊尾村と呼んでいたのだが島内で西海岸に同じ発音の泊居村があり、泊尾との語呂が似ているため、いろいろな面で誤りや、特に郵便物の誤配等で不便を覚えたので、村議会で検討する運びとなり村名を変更することになったのであった。異論もあったようだが、好景気をもたらした造材事業で、河川を利用した当時は、水の流れも濁っており泥の川であった。村民に幸福を運んでくれた川と言うことで泥川と言う名称で呼ぶことが満場一致で可決され一九二四年以降泥川となる。
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