第三篇 泥川の概況
 第二章 住民の生活様態                      
 一 四季の概要

  能登呂村泥川は樺太でも南方に属し、亜庭湾海流と樺太山脈に覆われて夏、冬、寒暖の差はあっても全体としては暮らしよい気候であった。

 四季をふりかえってみると、三月の中頃になると春めいてきて昼間は相当温かく、雪が融けはじめる。小川の泉がわき出ている付近では、僅かづつ土肌が見え始め、水音が聞こえてくるようになる。しかしこのごろでも夜間の寒さはまだ非常に厳しく、昼間融けた雪の表面がコチコチに凍り、朝は雪の上をどこでも人間が歩けるようになる。特に登校時は、山の中を直進して近道を選んで歩いた。

 四月の中頃には、にしん漁が始まり、泥川の浜は部落の人が大勢にしんの水揚げなどを手伝いに行く。浜市街付近の人はもちろん、農村地方から一里も二里もあるところの人も集まる。手伝い賃はにしんで支給され、一日働いてよい漁師さんの家で三箱か四箱(一箱は二斗)をくれる。

 四月の終り頃になると、谷間をのぞいて平地の雪は全部融け、馬橇(裏が鉄板の橇)も使えなくなり橇が馬車になる。五月始めには凍土も全部融け、畑も乾いて農家の蒔付けも始まる。蒔付けのための整地はすべて馬力で、五月末頃までに、麦類・菜・馬鈴薯・豆類等すべてのものを植える。その頃になると牛馬の子が次々と生まれるが、牛馬ともとくに支障がないかぎり毎年子を産む。とくに牛は、子が生まれないとたちまちその年の乳量や酪農の拡大に影響するので、必ず子を取るようにするのである。

 この頃から夏本番である。服装も学生は黒から白の霜降に変わる。六月・七月と急激に暑くなり、上半身が裸の人が多くなり背中の皮がむける(北国の人はそれまで肌を出すことがないのですぐむける)。学校の運動会・夏祭・子供は水泳と夏の行事は多い。八月には新しい馬鈴薯もでき、とうきびやカボチャも実る。八月十六日のお盆のころになると夜間はしだいに寒くなる。牛馬が発情するのもこの頃で、来年のため種付けが盛んに行われる。また野生の果物カレンズ・コクワ・山苺・フレップ・浜なす等が熟し、子供が野山を走り回り、秋の遠足も始まる。九月に入ると秋色が濃くなり、霜も降り始め、十月にかけて農作物の収穫が始まる。また農家などでは大根・キャベツ・白菜・人参・ゴボウ・かぶ類・馬鈴薯等冬に向け保存する野菜の取り入れ、保存の措置が行われる。

 十一月の中旬になると次第に寒さが厳しくなり、着用する衣類の毛糸製など冬支度となり、雪もちらつくようになる。十二月に入るといよいよ冬本番で、中旬には根雪が積もり始め、スキーも出来るようになり馬橇も使いはじめられる。冬の間北の方の造材に働きに出かける人びとは、馬の手入れ・バチバチの整備や毛皮のコートなど衣類を整え、早い人は十二月中旬には出かけて行く。おおかたの家庭では年の暮れ二十五日から三十日の間に餅つきをする。

 正月の元旦には年が明けると同時に初詣に行き、朝になるとお屠蘇を戴き、学生は書き初めをして「元旦の拝賀式」に行くが、家庭では挨拶回りくらいなもの。二日は「買い始め」で朝二時頃から大人も子供も寒さをこらえて店の前に並ぶので開店を待つ人の行列もできる。それ以外の日は皆ゆったりと百人一首のカルタ取りなどに興じ、七日正月・小正月・トント焼き(地域の神社前で門松を始め、正月用の飾り物や供物等を焼く)・二十日正月と何回もお祝い日があり、一月は皆のんびりと送る。しかし、酪農で牛を飼育しているところは、搾乳を休むことは許されないので大変であった。

 二月・三月は昭和十六年頃までは、林務省から払い下げを受けた暖房用の薪を、鉢子内の沢へ伐りに行く仕事に追われる。
 以上のような四季の状態の中における実際の生活は、概要次のようなものであった。

 二 食生活
  1 主食
    農村への入植当初は馬鈴薯・麦・イナキビ・その他現地生産物が中心で、特別のときだけ米をわずかに混ぜて食するといった状態であったが、その後はやはり米が主体で、これに麦を適宜混ぜて食べるのが普通であった。もちろん裕福な家庭では白米のみのところもあったであろう。ただ馬鈴薯と麦はいつの時代でも常用食として定着していた。浜市街の人々は漁業専業者が多かったので米、麦が常食であった。またその当時からトウキビ・カボチャは日常生活に欠かせない存在であり、農家はもちろん一般でも、間食は馬鈴薯と共にこれらによって賄なわれていた。(戦時中は主食に代わることもあった。)
 米はすべて内地から入っており、市街の柿倉商店、寺中商店などから購入していたが、北海道米は少なく内地米(主に東北米)が多かった。米の購入は農家などの場合、多くの人は現金買いはせず、農作物の収穫後これおを収めるやり方で一年に一回の決済を行っており、農家と商店は切っても切れない間柄であった。なお学校では給食ではなく、全校生徒が弁当を持っていったが、木箱・アルミ等の弁当箱をハンカチで包み、冬は冷えるのでストーブのそばに置いて暖めていた。また、農家の子供たちは、ソバ饅頭・馬鈴薯・カボチャなどを昼食用として持ってくる者もある。

  2 副食
    副食は野菜や魚類が主で、肉・卵は稀であった。漁師たちは生魚・塩魚・干物等が豊富であったが、漁業者を除いて魚類を必要なだけ自分で捕獲することは、一般的には不可能であった。(なかには相当獲っていた人もいたが)その季節によって鱈・鮭・キウリ・鱒・ニシン・イワシなどいろいろなものが豊富にあった。四月中旬から五月初旬にかけてニシンの漁期であるが、そのとき農家はもちろん広く一般の人々が(片道一里以上もある奥地の人も)、何日も浜市街の魚場へ手伝いに行き、労賃として一日三箱か四箱(一箱は二斗)合計一〇数箱もらって帰り、身欠きニシン・開き干し・糠漬けなどにして保存し、一年中副食としていた。ニシンからは数の子やシラコが獲れるのでこれも干して食用にしていた。またイワシも塩漬けにして一年中食べるようにしていた。
 泊尾川には年中川魚が豊富に生息しており、子供を含め釣りが盛んであった。春四月頃、体長二五cmぐらいのキウリといわれる魚が大量にのぼり、住民は直径六〇~九〇cmの網(タモ)を使って川岸で大量に捕獲し、薄焼きにして乾かし保存し、ダシにしたり煮て食べるとおかずになった。七月になると鱒ものぼりはじめ、八つ目うなぎ・うぐい(内地のイダ)等も多くいたが、鱒以外は美味しくないのであまり獲らなかった。
 鱒は刺し網かヤス(長い竿の先に三尺か四尺の二分丸位の鉄の棒の先端をとがらしアゲのついたもの)で捕獲する。八月になると鮭ものぼりだす。鱒は上流の浅瀬で産卵を始める。この時がヤスで捕獲する絶好のチャンス。突きどころが悪ければ魚に振り回され、悪戦苦闘することもある。このようにしてとった魚は、腹にはスジコが一杯入っていてもっとも美味しいときである。秋はヤマベがたくさん釣れたものだ。ヤマベ釣りには技術が伴うので名人級の人もいてものである。
 アメマス、サクラマスは春の雪解け水が終わる頃多く遡上するので、柳の棒に綿糸を下げ針にはミミズをつけて餌にすると素人でも釣れたものだ。また幻の魚「いとう」も、奥の方に行くと淵などに隠れて棲息していたので釣り名人は一メートル以上のものを釣り上げた人もいた。このようにして川魚は農家の人々の年中副食となる。
 肉は市街の柿倉商店、寺西商店に売っていたが農家では冬に自家飼育の豚を屠殺してもらい、肉を雪の中で保存し、必要な時に食べることができた。なお、鉄砲持ちの人もおり、鴨や兎等を捕って食べるため蛋白の補給も充分取られていた。

  3 野菜
    泥川の野菜は内地に比して遜色のない良質のものが栽培され、特にキュウリ・トマト・白菜・キャベツ・大根・ごぼう・ネギ等は生育が良かった。ただ問題は季節的に片寄っており、いかにしてこの加工物を含めこれを年中確保するかであった。それで樺太庁においても、補助金を出して保存用のムロを造ることを進め、各農家等は面積八坪位(二五・九平方メートル)・高さ七尺(二・一メートル)で、壁は三尺の厚さに土が詰められ、入口は三尺の間隔で二重戸になった大きなムロを造った。そうして冬場に食べる野菜を晩秋ごろに大量に入れて保存し、まらキュウリ・白菜・キャベツ・大根等の漬物は、年間需要を見込んで、いりいろの漬け方をして四斗樽に幾つも漬け込み、これもムロの中にで保存し、ほかの野菜とともに必要なときに取り出して食べていた。漁業者も自家用畑をたくさん持っていたので、野菜に不足しなかった。越冬用の野菜の確保は農家とほとんど同じ方法でやっていた。山菜もフキ・ワラビ・ゼンマイ・マイ茸等豊富だったので乾燥や塩漬けにして野菜と同じように貯えた。

  4 果物 
    果物は地場生産は皆無であったので、季節的な品物が地元の商店に入るのを買って食べていた。果物で内地から入って来るものは林檎とミカンが主で、毎年十一月頃になると林檎が青森方面から。またミカンは紀州・温州のものが五キロ位の木の箱に入って、市街の商店に積まれていた。十一月頃から三月始めまではミカンは何時でもあったが、冬期は凍っており、ストーブの上で解かして食べていた。

  5 牛乳
    泥川では酪農専業の家がないので一般的に売られていなかった。但し食料不足時代になると農家も一般人も牛を飼育して、牛乳を飲んだり隣近所に分けたりした。自家牛乳はそのまま生で飲むことはなく、沸騰寸前まで沸かし殺菌をしてから飲んでいた。夏などはこれを井戸の中に冷やしておいて飲んでいたが、その味は特別であった。たぶん泥川育ちの人は、牛乳の高良質のカルシウムの補給で、現在も骨が人並み以上に丈夫なことと思う。

  6調味料・嗜好品
   醤油・味噌は農家をはじめ一般でも、多くの家庭が自家製造をしており、それぞれの家庭が自宅の味を作りだしていた。自家製造をしない家は、市街の商店とそれぞれの立場で取引していたが、昭和一七年ごろから配給統制になり、品物が少なくなって節約の度合いも高くなった。調味料は味の素などはあったが、その他いろいろの種類のものは普通には出回っていなかった。
 酒類については、一般家庭で毎日飲む家もあったが、日本酒が主で次に焼酎であった。ビールやウイスキーはあまり一般に出回ることはなかった。日本酒は昭和一七年ごろから少なくなり始め、統制が行われてからは、ほんの少ししか配給されず、多くの人は焼酎へと移行した。四五度の焼酎が一般的で、一斗入りの瓶に入ったものを買ってきたが、これも昭和一八年頃にはほとんど無くなった。それで焼酎党はどこからかアルコールを買って飲む人もいた。酒類が無いと我慢できない人達は、内地から密かにコウジを取り寄せて薯焼酎の密造を企て、何回かの失敗を重ねてやっと飲めるものが出来るようになり、密かに飲んでいた。(戦後流行したドブロクのようなもの)

 三 家庭等での照明
    泥川は電線が引かれていないので主役は石油ランプであった。家の中はすべて石油ランプを使用していたがこれは大・小があり、大きいのは六〇蜀光位の光度があった。(三分、五分、八分と三種類)各家庭に二~三個位はあり、薄いガラスでできた「ホヤ」が煤けるので、手をホヤの中へ入れて毎日拭かねばならず、手の小さい子供の仕事であった。屋外では乾電池を使用した懐中電灯が使用され、また、夜の浜廻り、倉庫や牛舎等で仕事をしたり吹雪の中で仕事したりするときには、安全で消えない石油ランプがあった。ちょうちんやローソクを一般的の照明に使用することはほとんどなく、特別のことのみ使われていた。
 また、漁業関係者は沖揚げや時化など夜仕事をしなければならないので海岸の建物にガス灯の設備をしていた。 

 四 暖房(浜市街の燃料用薪の件については思い出の記参照)
    農家は、入植後間もないころ「いろり」式で暖をとったり、煮炊きなどもしていたが暫くすると鉄板製のストーブができ、専ら薪が燃やされた。このストーブは大きいものは大鍋が二個煮炊きできるようになっており、ご飯もおかずもこれで煮炊きしていた。また、薯などいろいろのものが鉄板の上で焼け便利であった。ストーブは茶の間に置かれ、煙突は屋根や壁を突き抜いて屋外に出してある。冬は寝る時以外は火を燃やし続けであるが、夏は朝夕や必要なときだけ燃やす。どんな寒いときでも室内の暖房はこれで充分であった。
 このようにストーブは非常に便利だったが、薪の確保が大変であった。始めのうちは自分のうちの土地で簡単に確保できたが、それが無くなると国有林の山火事や風倒木、松毛虫等による枯損木を林務署から払い下げを受け、木代金を支払い、各人は冬になるのを待って、山に行き伐採を始める。そうして二つの橇連なったバチバチと称する馬橇に、二間位に切った丸太を積み自宅に運んでくる。しかしこれも、始めは自宅に近いところだったのでさほど苦痛でもなかった。しかし年を経るにしたがって遠くなっていった。朝暗いうちに馬橇に乗って出発し、自分の割り当てられた所に着くと、十二尺位の長さに木を伐り、馬が引けるだけバチバチに積んで帰途につく。自宅に着くのは夕方か暗くなっている。白樺も直径一尺五寸位のものは伐ってきたが、熱量は高いのでよかった。それに比べトド松は、火力がなくストーブの中でバチバチ音だけは高かった。でも火付きは良く急ぐ時や炊き付け用には便利だった。

 五 飲料水・風呂 
    泥川には各戸ごとに水道施設は無く、家庭・学校・役所等も多くが井戸を掘り、ツルベや手押しの揚水ポンプで水を汲み上げていた。また地下水が湧き出ている所も多く、その水をせき止めて使用したり、川の水をせき止めて使用したり、川の水をそのまま使用するなど、飲料水の確保は比較的容易であった。風呂については、設備されだしたのが非常に遅く、入植後しばらくの間は、盥(たらい)で湯浴びをしてすませていたが、その後桶を用いた七輪風呂ができ、さらに五右衛門風呂も作られるようになった。七輪風呂は何処へでも動かすことができ、内地でも使われていた。風呂ができた当時は、やはりゆったり湯につかると気持ちが良いので、もらい風呂だされていた。風呂はバケツ等で水を汲み入れなければならず大変であった。浜市街では木材景気時代は風呂屋が二軒あった。

 六 着衣
    入植当初は現地の寒さがわからず比較的薄着で生活できたが、次第に寒さが判るようになり、これに適応した着衣に変わってゆくのだった。男性の場合、夏は白木綿のワイシャツと上着、下はズボンだけの場合が多く肌シャツやズボン下を着る人は少なかった。冬になると厚い生地のコットンやメリヤスの肌シャツ・ズボン下、その上に厚い生地のズボン、ワイシャツ、毛糸のチョッキやセーター、さらにジャンバー等の上着外に出るときはオーバーというように常時四~五枚を重ね着しており、首巻きやマフラーも必ず着用していた。中には内側が犬の毛でできた袖なしコートの防寒衣を着ている人もいた。手袋は、作業中は軍手を用いるが、それ以外はほとんどの人が毛糸の手編みのものを使用し、また真冬で馬の手綱等を握るときは、その上に毛を内側にしてできた「テッカイ」といわれる皮の防寒手袋を使用していた。
 靴下もほとんどの人が手編みの毛糸製であり、靴は農作業の時は地下足袋でゲートルを巻き、普通の時は殆どゴム長靴で短長、中長、特長、胴長などであった。冬は普通は内側に布の張られたゴム長靴であり、特に寒いときや雪の中での作業のときは現在の登山用のような頑丈な防寒編み上げ靴があり、靴下の上へさらに赤いラシャを巻きつけて寒さを防ぐようにしていた。その他、真冬には藁で作った「つまご」や「ボッコ」と称する履物もあった。靴や下駄類はほとんど市街の店で買っていた。
 帽子は、農作業中は麦わら帽、普通は青年は戦闘帽、壮年はパナマ帽や登山帽であった。冬はスキー帽と中折帽が一般的で特に外部で仕事などする人は内部が毛になっている防寒帽を被っていた。漁師はヤン衆独特の三角布による頬かぶりが、手拭の鉢巻である。
 学生については、夏は霜降り、冬は黒で制服が決められており、女性は夏でも着物が多くブラウス、スカート等を着はじめたのは昭和七~八年頃からであった。娘の場合、冬は毛糸のセーターを多用しており皆自分で編んでいたようである。婦人は夏・冬ともに着物が多く白いエプロンを着用した。昭和十年頃からモンペを多く着るようになったが当時の婦人は下着は腰巻だけで、年配の婦人は終戦までその状態であり中年でもズロースをはき出したのは昭和十六年頃からであった。なお、女性は学生を含め毛糸の首巻を良く用いていたが、この外に冬の外出時は「カクマキ」(上質の毛布の様な生地で下方に房の飾りがついている)で体をすっぽり覆い、あるいは頭から胸元あたりで合わす様に両手で押さえており非常に暖かった。当時の女性は、小学校の頃から暇さえあれば、どこからでも編み棒を何本も器用に動かして編み物をしており、真に感心させられる姿で樺太にいた人の目には強く焼きついていることと思う。

 七 医療
    泥川には市街に松原医院が昭和十二年頃まで、その後一時期赤川医院が開業しており、内科・小児科が専門だった。一般的にここで診察、治療を受けていたが、骨折とか特別の病気の時は大泊や豊原の専門病院に行っていた。保健所的な施設はなく、出産はほとんど近隣の経験者か、部落でも優秀なベテレン無免許産婆さんに取り上げて貰った。
 学校の児童に対しては、前記の医院が校医になって種痘などの予防接種は勿論のこと健康診断もよく行われていた。耳の検査で耳の中で死んだ虫を取り出し驚いたことがある。薬局がなかったので、各家庭に置かれた富山の置薬で間に合わせていた。腹痛、頭痛、感冒などは効力がったと思う。

 八 出身県と言葉遣い
    泥川の住民は東北・北海道等内地の各地から寄り集まりであったが、当初は先駆者藤田魚場の関係で青森県人が多かったようだ。しかし、他地域のように集団入植方式の団体がなかったのでまとまった県人組織もなく、したがって北海道言葉が主流だったせいか日常会話に不自由することがなかった。学校が充実し、また青年団の活動が活発になるにしたがって、次第に方言での対話が影をひそめるようになり特に学校においては、生徒は先生の言葉づかいに順応して標準語で話をするようになっていった。しかしこれからの子供も家庭に帰ると、両親が話すナマリや方言で対話するのが実情であったので、ちょっと慌てて話したり、特異の状態の時は突然家庭で話している方言が出てみんなに笑われていた。しかし時が経つにつれ学校内も標準語に順応し、親達もこれに自然淘汰され遂には方言も陰をひそめ、逆に泥川の浜言葉が巾をきかすようになった。

 九 娯楽
    子供の遊びは内地と余り変わらずパッチの取り合い、直径三センチのパッチの飛ばし合い、おはじき遊び女性はあや取り、お手玉、川遊びや魚釣りも娯楽のひとつのような感じである。冬になるとスゴロク、カルタ取り、タコ揚げ、シキーなどが主なものだった。数え年が十四、五才になると正月には百人一首のカルタ取りとトランプ遊びが第一で、近隣の男女が七、八名集まって夜中まで遊ぶ。百人一首の取り札はツゲの板に墨で書いたもので、一人が読み人となり、最初の一枚だけは上の句を読むが、あとは下の句だけを読んで取る。上手な読み人は次の句へ移るときの節回しが微妙にうまい。この微妙な節回しが次の句を推測する決め手になるのである。カルタ取りが飽きてくると、今度はトランプや百人一首の読み札をつかって、坊主あるいはお姫さん取りなどいろいろと工夫して遊ぶ。この集まった人にいろいろとご馳走を出したり、夜中まで騒ぐので大変であった。このような遊びは、一月がもっとも盛んで、二月になると余り行われなかった。
 そのほか将棋も案外盛んで子供も大人もやっていた。また一部では花札を使っていろいろの遊びも行われていた。
 活動写真は年二、三回、盆お祭り等に業者が持ってきたり、樺太庁の宣伝用もあったりしたが、数える位だった。映画のほか芝居や浪花節などが行われることもあった。映画は昭和十一年ごろにオールトーキーになったが、それまでは弁士が映画説明を行っていた。芝居は夏祭り・秋祭り等で空き倉庫などを使用して旅芸人によって行われることが多かったが、この外に青年団等による素人演芸会もときどき行われ、遠方から老若男女が集まり非常に盛会であった。
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