2007年8月21日
  ユジノサハリンスク(豊原)⇒30km,1hr⇒小里(ペトロパヴロヴスコエ)
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 朝起きて、ホテルの窓からユジノサハリンスク駅構内を見ながら、泥川へ行く準備をする。トイレットペーパーは日本のものより巾が狭く、少し固めだった(以前のトイレットペーパより格段に良くなった)。朝食中に、予め封筒に入れた1万円を2,000ルーブルに交換する。
 食事が済み、ホテル前に出てみたら、ウラル(大型多用途6輪駆動車)が待っていた。ウラルはV6、10,000ccディーゼルエンジン、タイヤの直径1.3mのフルタイム6輪駆動と言うことだ。市内のコンビニへ寄り、数種類のロシアビールやウォッカを、お金を出し合って2日分買う。
 途中、愛棒が誕生した地の小里に寄る。小里はユジノサハリンスク(豊原)からおよそ30kmで、アニワ市(留多加)までは10kmくらいと思われる。今回は、留多加川に架かる橋の上から小里を望むことにして、橋の中程まで来ると、遡上するサケマスが見えていた。
8/21 6:09 8/21 7:05 8/21 7:49 8/21 8:46
ホテルの窓から駅構内 ウラルに荷物を積む ウラルで買い物 留多加川を覗く
 留多加川の上流に、小里があり、小合いの沢があるはずなのだ。ここの上流から、愛棒の両親は50kmはあると思われる「芳内(よしない)」まで、生まれて間もない相棒を背負い、夜道や山道を選んで歩き着いたと言う。愛棒の母親は、赤ん坊の相棒が重たいので、何度も捨てようかと思ったと言う。愛棒は小里から芳内までの距離が意外と遠いのに驚き、改めて亡き両親に感謝したと言う。
           ←大
8/21 8:46
留多加川に架かる橋の上から小里を望む
 サハリンスクアルテック(子供の保養所?)の看板が見える帰り道にゴボウの花を見つける。日本人が栽培したものが、野生化して時を重ねて咲いているのだろう。これも、サハリンの中に息づく樺太だろうか。橋を振り返りながら、歩いていると、道端から少し入った所に、花を手向けたお墓?があり覗いて見た。
8/21 8:51 8/21 8:52 8/21 8:54 8/21 8:55
アルテックの看板が ゴボウ 橋を振り返る 道端の墓標?
 2007年8月21日
  ペトロパヴロヴスコエ(小里)⇒40km,1hr⇒キリ−ロヴカ(雨龍浜)
 次の訪問地は、田畑さんの故郷雨竜(キリーロヴカ)だ。留多加(アニワ)を過ぎると、多蘭内(タラナイ)、幌内保(オリホヴォートカ)、池月浜、渋内、南池月(バチンスカヤ)、初見沢(コピーリカ)と進む。田畑さんは盛んに、地図と睨めっこをしていた。流石に、元海上保安庁の船乗りだ。雨竜に近づくに従って、双子山と思われる山影が見えてくる。雨竜川の手前で停めて、田畑さんの実家跡を探しに行く。道端には青い「カラフトヒヨクソウ」、紫色の「ムラサキニガナ」が咲いている。この道を辿ると、雨竜川(ウリューム)に突き当たり、釣り人が大勢いた。
8/21 10:05 8/21 10:17 8/21 10:20 8/21 10:23
双子山? カラフトヒヨクソウ ムラサキニガナ 雨竜川に辿り着く
 川の辺を上流に遡りトリカブトの咲く所から川に下り、上流を目指す。下流には、大勢の釣り人やハイカーが見える。上流を辿ると、田畑さんは、川幅が広くなっていると言う。
8/21 10:27 8/21 10:28 8/21 10:28 8/21 10:33
トリカブト 雨竜川の上流を 雨竜川の下流を 幅の広くなった雨竜川
 どうやら、川岸が削られたようで、中州や洗濯板状の河原が目立っていた。田畑さんは川岸から沢の位置を特定して、実家跡を探そうとしているようだった。川から戻って、帰り道を歩いているとユリが咲いている一角を見付け、近づくと自然界には無い「クルマユリ」だった。その傍も、不自然に陥没していることから、人が住んでいた跡と思った。田畑さんを呼んで、確認してもらうと、実家の跡かもしれないと言う。近くには松もあったようで、大木となった松と記念写真を写す。
 帰りがけ、ハマナスと思っていた真っ赤な実があり、良く見るとハマナスよりも小柄で、幹にはハマナスのようなトゲがない「カラフトイバラ」だった。
8/21 10:35 8/21 10:44 8/21 10:44 8/21 10:54
雨竜川の洗濯板 ユリが咲いて クルマユリ カラフトイバラ
 2007年8月21日 キリローヴカ(雨龍)⇒20km,2hr⇒泥川(ウリャーノヴカ)
 雨竜から岩肌の見える崖を見ながら南下して行くが、芳内川はあっと言う間に渡ってしまう。崖の断層が綺麗に見えたり、上下の断層がはっきり違ったりするのを眺めながら車中で揺れる。
8/21 11:20 8/21 11:26 8/21 11:27 8/21 11:30
岩肌の見える崖 芳内川を渡る 断層が綺麗に 断層がはっきりと
 次々と岩肌が剥き出しになった親不知の崖を見ながら進んで行く。次の菱取(ひしとる)川(タンボーヴカ)は大きな川だが、この川もあっという間に通過する。浜辺は打ち上げられた昆布が山になっていて、行く手を塞いでいたが、波打ち際より海よりを走る。
8/21 11:33 8/21 11:33 8/21 11:36 8/21 11:41
親不知の崖 親不知の崖 菱取川 昆布が山に
 菱取の崖は断層の横縞に上から落ちて来る水が縦縞を作っていて、大変綺麗な崖だ。水の豊富な滝もあり、二段になっていることから本当の名前が分るまで、便宜上「二段の滝」と呼ぶことにしている。この滝で、キャンプ用の水をポリ容器に入れて出発する。
8/21 11:43 8/21 11:44 8/21 11:45 8/21 11:50
菱取の縦縞の入った崖 二段の滝
 鉢子内の崖越の奥に、古江の岬も見え出す。三本の滝もあっという間に通過して行き、鉢子内の崖を見上げながら進んで行く。 次の川は鉢子内川で、この川を渡ると泥川の端に着く。焼け落ちた白い家は再建されて人が住んでいた。
8/21 11:54 8/21 12:08 8/21 12:12 8/21 12:15
古江の岬が 三本の滝 鉢子内の崖 鉢子内の崖
 2007年8月21日〜23日 泥川(ウリャーノヴカ)キャンプ
 21日(キャンプ1日目) 
 まもなく、二つに折れた火の見櫓のある市街地(基点)に着いた。相棒は2回目の里帰りを果たした。早速、砂山へ上がりパノラマを写す。砂山の陰は、アザラシの死骸とロシア人の糞だらけだった。その代り、熊の糞は全く無くなっていた。浜は、ロシア人の大型トラックが3台停まっていて、船が一艘陸上げされていた。
 国道へ上がる道には鍵のかかったゲートがあり、記念碑に行くことが出来なかった。どうやら鍵は鉢子内の白い家の住人が持っているようだが、留守とのことで、翌日、鍵を借用し行くことになった。
                                         ←大
8/21 12:34
砂山から泥川を一望する
 ノマドの伊藤さんは鍵のかかったゲートを見て、計画の変更を考えているようだった。ロシア人スタッフはキャンプの準備をしたり、夕食の準備を始めた。私は始め浜辺を散策て沼、泊尾橋、花を写しに行く。
8/21 12:29 8/21 12:35 8/21 12:40 8/21 12:42
泥川基点 沼と泊尾橋 エゾオグルマ ハマエンドウ
 泊尾橋を沼越しに写したり、沼の辺から写したり、摺鉢山をバックに写したりした。泊尾橋は泥川のシンボル的存在なので、やはり、絵になり郷愁をさそる。
8/21 12:49 8/21 12:49 8/21 12:52 8/21 12:53
泊尾橋と沼 沼の辺から泊尾橋 泊尾橋と摺鉢山 川辺から泊尾橋
 前回来た時には、熊の糞が呆れるくらい至る所にあったのが嘘のようで、熊の糞が全く無い。何か物足りなさを感じた。白く咲くノコギリソウを横目で見ながら、旧市街へと向かう。旧市街には鳴海さんを筆頭に全員揃っていて、散策中だった。旧市街には食料を貯蔵していた鉄板倉庫のトタンがまだ、真っ赤になってはいるが原型を止めていた。釘を一切使わず、繋目に鉄の棒を差し込んで組み立てる方式だったという。鳴海さんの家跡は鉄板倉庫の山側にある。欠けたニシン釜もまだ見付けることができた。市街地にもハマハタザオの花が咲いていた。
8/21 12:58 8/21 13:10 8/21 13:11 8/21 13:19
ノコギリソウ 鉄板倉庫の鉄板 ニシン釜 ハマハタザオ
 ひっくり返ったニシン釜もあり、浜辺へ抜ける小道にはロシア人の漁場標識なのか、丸太に打ち付けられて立っていた。また、旧市街に戻るとニシン釜を見付ける。鳴海さんは、蹄鉄屋あたりで、水道跡と思われるコンクリートの塊を掘っていた。
8/21 13:20 8/21 13:21 8/21 13:24 8/21 13:38
ひっくり返ったニシン釜 ロシア人の漁場標識? ニシン釜 水道跡のコンクリート
 今回始めて参加の藤田さんは、62年ぶりに藤田旅館の跡に立ち、Vサインをする。再び、浜辺に戻って、エゾオグルマ、ハマハタザオ、ハマベンケイソウの別嬪さんを探して写す。
8/21 13:45 8/21 13:49 8/21 13:51 8/21 13:52
藤田旅館跡 エゾオグルマ ハマハタザオ ハマベンケイソウ
 ハマエンドウを写し終えて、キャンプ地に戻ると、泊尾橋を見に行くと言う。泊尾橋を通り越して、真っ先に向かったのが、泊尾橋の上流の川辺だった。狙いはカラフトマスや鵜を見ることだったようだ。戻って、欄干の名盤や鉄筋が覗く橋脚の穴を眺める。この橋にも、悲しい物語があるようだ。鳴海さんの話しでは「タコ部屋」の住人が作ったと言う。そう言えば、古い地図には鉄板倉庫の前浜に「タコ部屋」の表示がある。
8/21 13:54 8/21 14:10 8/21 14:11 8/21 14:13
ハマエンドウ 上流から泊尾橋 泊尾橋の欄干 橋脚に穴が
 前回同様、泊尾橋をバックに記念写真を写す。写し終えると、また、川辺に下りて、カラフトマスを見にいったので、私は、橋脚の上に上がろうとしたが、カメラをいれたヒップバックが邪魔で、昇ることが出来なかった。今度は丸太1本持って行こうと思う。
 次に、国道と開拓道路が交わる交差点にある「花田の実家跡」に行き記念写真を写す。花田の実家跡はロシア人が作った工場のコンクリートの大きな塊があり直ぐに分るのだが、「グースベリ」が何処にも無い、本来なら実をたわわに付けている時期なのだが、木すら無くなっていた。がっかりしながら、キャンプ地に帰る。
 浜では、ロシア人が係留していた船を出して、網起こしを始めていた。この光景を間の辺りにして、皆一様に複雑な表情だった。泥川だと思っていたのが、やはり当たり前の話しながら「ウリャーノブカ」だと、知らされる。私は遠目で見ていたが、相棒と叔母さんは一杯に膨れた網をクレーンでトラックに移す作業を見て、手を叩いて喜んでいた。すると、ロシア人はもっと良く見える船縁に三人を上げてくれ、お土産に15本貰って来た。それを鳴海さんが、腹を裂いて「筋子」を取り出し、魚に塩をまぶして、帰りまで悪くならないように海岸の砂に埋めた。
 夕食中に、ノマドの伊藤さんの知り合い(鉢子内の漁師)がタラバガニとハナサキガニを12人なのに、15杯持って着てくれた。その大きさに、声も出せず、黙々とカニと格闘する。カニを一杯食べると、後はもう腹には入らなかった。
8/21 14:17 8/21 14:18 8/21 14:22 8/21 17:35
泊尾橋をバックに 泊尾橋の橋脚 花田の実家跡 差し入れのタラバ(大×)
 食事が終わり、キャンプファイヤの所で、日本語でロシア民謡を歌をうかと思ったら、サーシャ(日系ロシア人の通訳:大学生)は「百万本のバラ」しか知らないという。仕方が無いので、分らない序に、「青い山脈」を歌うと、綺麗な声ですねとおだてる。歌集にはカチューシャだけロシア語で書かれていたので歌えと言うと、知らないと言う。早々にシラケて、テントに潜り込む。
 このテントが曲者で、真ん中に支柱があるので、広い割には4人寝るには窮屈だった。おまけに、波打つ傾斜に立てたので、寝難いこと甚だしい。良く見ると、地面が丸み見えだった。
 寝ていると、雷雨になり、浸水しないかと心配だったが、支柱に雷が落ちないか最っと心配だった。田中さんに頭を蹴飛ばされて寝たのか寝ないのか分らないまま、次の日に突入する。
 2007年8月21日〜23日 泥川(ウリャーノヴカ)キャンプ2日目へ続く